☆京都市交響楽団 第613回定期演奏会
指揮:小泉和裕
座席:3階LB1列5番
(2017年6月23日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
名は体を表すというけれど、顔もまた体を表すのではないか。
例えば、その実演録音に接しながら古今東西の指揮者たちの面構えを改めて窺えば、確かにこの顔にしてこの音楽ありの感がしないではない。
むろん、そこにはある種の偏見思い込みもないではないが、赤熊の如き相貌の御仁はやはりパワフルな演奏を、能面怜悧なかんばせの持ち主は研ぎ澄まされた精緻な演奏を、それぞれ繰り広げていることが少なくないだろう。
その伝でいけば、少々えらが張って角張った顔立ちの小泉和裕という指揮者は、かくかくしかじか四角四面しかつめらしい音楽の造り手になる……。
と一概に断定することはできないのだけれど、小泉さんと僕のファーストインプレッションはあまり好ましいものではなかった。
あれは1989年の2月18日だから、もう30年近くも前になる。
京都市交響楽団第311回定期演奏会(京都会館第1ホール)で初めて接した小泉さんの指揮からは、まとまりがよくて劇性に富んだ音楽を生み出そうという意志はよく伝わってきたものの、それ以上の何かが届いてこないもどかしさを覚えてしまったのである。
一つには、当時の京響の技術的精神的な限界も大きかったとは思うが。
(ちなみにこの定期演奏会では、ベートーヴェンの交響曲第4番、エリック・テルヴィリガーを独奏に迎えたリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番、ラヴェル編曲によるムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』が演奏された)
そんな小泉さんへの評価が大きく変わったのは、2006年5月25日の大阪センチュリー交響楽団の第111回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)、特にメインのベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を聴いてからだ。
この日のエロイカ・シンフォニーは本当に聴き応えがあった。
カラヤン譲りの小泉さんのオーケストラコントロールに当時のセンチュリー響の精度も相まって、凝集力が高くて密度の濃い演奏に仕上がっていたからである。
(確かこの演奏は関西テレビが収録して、テレビでも放映されたはずだ)
それから10年。
『レオノーレ』序曲第3番に交響曲第2番、交響曲第7番とベートーヴェンばかりを並べた京都市交響楽団第613回定期演奏会は、小泉和裕という指揮者の表現と表出意欲の強まりが存分に示されたコンサートとなっていた。
そしてそれは、作品の持つ力感の再現と音楽の強弱の変化への的確適切な反応とでも言い換えることができるのではないか。
中でも、『レオノーレ』序曲の追い込み前のフルートを中心にオーボエやファゴットが絡んでくる部分での静謐さや、交響曲第7番の第3楽章の2度目の中間部でさらに音が大きさを増す辺りに、小泉さんの美点がよく表れていたように感じられた。
と、ともに早めのテンポをとりつつ、音楽の流れにも配慮がなされていたことも忘れてはなるまい。
ただ、両交響曲の第1楽章など、カラヤン風の指揮ぶりとは異なり、どこかスマートになりきれないぎくしゃくとした感じが付きまとっていたことも事実ではある。
とはいえ、というか、だからこそか、一気呵成、というよりも、まるで話したいことがあり過ぎてせっかちに捲し立てているかのような第7番の終楽章の走りっぷりは強く印象に残った。
当然そこに劇場感覚のケレン、音楽造りの妙がないとはいえないけれど、それより何よりあれは、小泉さんの強い表現欲求の表れだろう。
ベートーヴェンの音楽の持つ狂気、きちがいぶりがよく再現されていた。
(そうそう、うっかりして忘れていたが、小泉さんはもともと山田一雄の弟子だったのだ)
14、12、10、8、7という編成の弦楽器(通常配置。コンサートマスターは泉原隆志で、フォアシュピーラーに渡邊穣)、2管編成の管楽器という京都市交響楽団は、細かいミスは聴き受けられたものの、指揮者によく沿った音楽を生み出していたと思う。
それにしても30年。
京都市交響楽団も、演奏会場も大きく変わったなあ。
ああ、面白かった!!
2017年06月23日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック