☆ドキドキぼーいず#07『生きてるものはいないのか』
脚本:前田司郎
演出:本間広大
演出助手:高嶋Q太
稽古場助手:小原藍
(2017年6月10日18時の回/アトリエ劇研)
死ぬのが怖い。
物心ついたときから、自分が死ぬこと、自分という存在がこの世から消えてなくなってしまうことが怖くて怖くて仕方なかった。
遂には怖さが高じて、気がつけば、授業に出ても、バスに乗っても、食堂に入っても、劇場に足を運んでも、ああ自分も含めてこの場にいる人間全てが死んでしまう、というか、生あるものはいずれ全て死んでしまうのだと考えてしまうようになっていた。
よりよく生きれば死の恐怖などどこかへ…、などと思いながらも、結局死の恐怖から逃れることはできず、まもなく48歳を迎えようとしている。
初演の演劇計画2007(前田司郎自身の演出/2007年10月19日、京都芸術センターフリースペース)に加え、十八番座第1回公演(清水航平演出/2012年4月15日、京都造形芸術大学高原校舎Aスタジオ)と、これまで二度その実演に接してきた前田司郎の『生きてるものはいないのか』は、そんな死を恐れる人間にとってとてつもない恐怖を与えたのではないか。
なにせ、登場人物全員、というより地球上に存在する全ての人間(生命)がどうやら死に絶えてしまうという内容のお話なのだから。
が、実際はそれほど恐怖を味わうことはなかった。
いや、陸続と命を失っていく登場人物たちの姿に当然、死ぬということや生きるということについて考えなかったといえば嘘になるのだけれど、常日頃死について考えている人間にとってそれはあまりにも当為のものに過ぎて、激しい恐怖に繋がることはなかったのである。
それに、初演時は、前田さん流の暗さを伴う滑稽さやさらっとした意地の悪さを愉しみつつも、何か手探り感もあって、黒澤明の『赤ひげ』や筒井康隆の『死にかた』と比較してその微温的な作品世界に物足りなさを感じたことも事実だった。
一方、十八番座は無手勝流の悲しさ、粗さ拙さが目立ったが、必死のぱっちの真摯さには大いに好感を覚えた。
そうそう、初演の際にエイコ役を演じた宮部純子が前田さんの作品世界によく沿って水を得た魚のような演技を披瀝していたんだけど、演出演者ともに初演時の映像に触れていないにもかかわらず、十八番座のエイコ役の松浦倫子が宮部さんを彷彿とさせるような演技を行っていたことが強く印象に残っているんだった。
で、三回目となるドキドキぼーいずの『生きてるものはいないのか』は、本間君の演出に演者の顔触れも加わって、初演や十八番座と比べて、スタイリッシュでスマートというか、均整のとれた舞台に仕上がっていた。
(などと書くと、映画版を思い出す向きもあるかもしれないが、あれは全くの「別物」だ)
と、言っても、もちろんシリアスに傾いているというわけではない。
それどころか、早めのテンポで繰り広げられるやりとりに演者陣渾身の「死に様」は、よい意味での邪劇臭に満ち満ちており、当方が観た回でも大きな笑いが起こっていた。
しかしながら、というか、だからこそ、生きるということや死ぬということについて、改めていろいろと考えさせられたことも事実である。
死の恐怖を払拭することはどうしてもできないけれど、少なくともよりよく生きたいとは思えた。
(あと、初演から約10年が経つということも大きいが、劇中、現実に起こった出来事が明示されていた点は、本間君らしいと感じた)
ヰトウホノカ、菅一馬、ガトータケヒロ、藤原美保、浅野芙実、大石達起、FOペレイラ宏一朗、佐藤和駿、望月モチ子、葛井よう子、松岡咲子、勝二繁、川上唯、西村貴治、西川昂汰、黒木陽子、諸江翔大朗、黒木正浩(以上、公演プログラム記載順)の演者陣は、技量経験の長短や笑いに対する素養の差、テキストの持つアトモスフェア(地方都市が舞台に設定されているものの、戯曲自体は明らかに「東京」が色濃く反映されたものだ)との齟齬は個々見受けられたが、本間君の演出に沿いつつ、各々が演じる登場人物を「生き生き」としたものにするための努力を重ね、まとまりのよいアンサンブルを築いていた。
とともに、それぞれの特性魅力、さらにはその人自身の来し方もよく表れており、その点も非常に興味深かった。
公演は残すところあと二回。
演者陣の皆さん、無事千秋楽まで舞台上で生き切って死に切ってくださいね。
ああ、面白かった!!
2017年06月11日
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