☆N₂ Tab.2『火入れの群』
作・演出:杉本奈月
(2017年6月2日15時半開演の回/アトリエ劇研)
黒澤明の作品の一つに、シェイクスピアの戯曲『マクベス』を下敷きにした『蜘蛛巣城』がある。
エンターテイメントと実験性の強いシリアスな作品が混在する彼の映画の中で、映像演技の両面においていわゆる「表現主義」的表現が駆使された『蜘蛛巣城』は、当然後者に属しているといえるだろう。
特に、そのラスト、何本もの矢によって死に追いやられる鷲津武時と、何度洗っても手から血がとれない、嫌な血だと恐れおののくその夫人浅茅の姿には、三船敏郎と山田五十鈴の迫真の演技も相まって、妄執による狂気、自我の崩壊、人の深淵を強く感じざるをえない。
けれど、そうでありながら、黒澤明自身の強烈な表現欲求もあってか、それら妄執、自我、破滅が単純な勧善懲悪的に否定されるもののように見えないあたりもこの『蜘蛛巣城』の興味深い点である。
しかも、上述したようなシリアスなシーンは、過度過剰に真摯さが徹されれば徹されるほど、わざとらしさ不自然さ力みが強調され、ある種の滑稽さが生じてしまってもいる。
きれいはきたない、きたないはきれい。
という『マクベス』の台詞ではないが、本来ならば相反するような要素が曖昧模糊とした形ではなく、それぞれ剥き出しのままに並置されているのが『蜘蛛巣城』の特徴の一つだ。
そうした『蜘蛛巣城』と、「書き言葉と話し言葉の物性を表在化する試み」と付言されたN₂のTab.2『火入れの群』を短絡的に直結させて考えるとすれば、あまりにも荒唐無稽で牽強付会に過ぎるだろう。
それどころか、『蜘蛛巣城』と『火入れの群』は、表現様式や劇的構成においても、創作意図においても、大きく異なるものである。
アトリエ劇研という場で公演を行うことへの留意を含めた数々のテキストの引用や、先達からの演劇的手法の援用を通して試みられているのは、ときに演じる者や観る者への鋭く際どい揶揄すら辞さない、演劇・表現活動そのものへの批評的で実験的なアプローチである。
そしてそれは、慎重なほどの「私」性・「自己言及」性の排除と言い換えてもよい。
と、こう記すと、ただただ難解で厄介な作品世界を想起する向きもあるかもしれないが、演者間の音楽的な掛け合いもあってあえてスケルツォと呼びたくなるような諧謔性にも富んでいるし、逆に演者の身体性も利用した抒情的な表現にも欠けていない。
一筋縄ではいかないが、観どころ考えどころに満ちた作品といえる。
しかしながら、そうであっても、そうだからこそ、杉本奈月という劇の造り手の試行と思考、志向と嗜好が明確に表されていることも厳然とした事実だ。
一方で、演劇という表現活動は、他者との共同作業でもある。
ナカメキョウコ、岡村淳平、森谷聖の演者陣は杉本さんの意図に沿う努力を重ねながら、いや重ねるからなおのこと、その個性魅力(ナカメさんの美しさ、岡村君の飄々然とした感じ、森谷さんの陽性)、個々人の課題、さらにはテキスト・演出との齟齬を如実に露わにしていたのではないか。
自己は自己であって他者でもあり、他者は他者でありながら自己でもある。
きれいはきたない、きたないはきれい。
様々な葛藤、せめぎ合いが曖昧模糊として中途半端な形で折り合うのではなく、結果必然的なものとして存在する点もまた、この『火入れの群』という作品の持つ特性であり成果のように感じた。
そして、その一点で『火入れの群』と『蜘蛛巣城』は相通じている。
いずれにしても、僕は表現活動に携わる一人として大いに刺激を受けることができた。
ああ、面白かった!!
2017年06月02日
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