☆ブルーエゴナク『ふくしゅうげき京都ver.』
作・演出:穴迫信一
(2017年4月22日19時開演/アトリエ劇研)
現在視聴者の注目を集めているテレビドラマの一つに、テレビ朝日が連日お昼過ぎから放映している『やすらぎの郷』がある。
脚本はあの倉本聰で、彼自身を仮託したと思しき脚本家がテレビ界をリタイアした人々の共住する「やすらぎの郷」へと居を移すものの、やすらぎの郷とは名ばかり、日々ややこしい人間関係と諸々の雑事に振り回されて…。
といった具合にドラマは続いている。
あいにく動画サイトにアップされたものを拾い観した程度だが、脚本家を演じる石坂浩二(小林信彦も指摘していたように倉本さんそっくり)をはじめとした贅沢なキャスティングはもちろんのこと、ゆったりとしたテンポの噛んで含めるような台詞のやり取りから窺える倉本聰の人間観察の鋭さと時に噴出する激しい感情、切実な願望には大いに興味をそそられる。
北九州を拠点とするブルーエゴナクにとってアトリエ劇研での三度目の公演となる『ふくしゅうげき京都ver.』を観ながら、僕はふとその『やすらぎの郷』のことを思い出した。
舞台は、その街では結構な歴史を有しており、評判もなかなか悪くないらしい中華料理店の半月。
とある出来事から、そこに集う人々の関係は崩れ始め…。
テレビドラマと演劇の違いはひとまず置くとしても、『やすらぎの郷』に対してこちらはアップテンポで台詞も基本的には要所急所を押えていくスタイル、出演者が若い分エネルギーの量も大きいし、『ふくしゅうげき』というタイトルに相応しく、集団組織に発生する無意識の悪意や欲求欲望が、ときに滑稽さをまぶしながら身体表現や場面や時系列の跳躍を効果的に活かしつつ綿密に描かれていく。
当然、『やすらぎの郷』とこの作品をそっくり似通ったものだなどと評するつもりは毛頭ない。
ただ、アフターイベントで穴迫君自身が語っていた如く、かつてのアルバイト先の実話をもとにしてこうした一つの虚構を仕立て上げる冷静な観察眼やストーリーテリングの妙には、倉本聰という劇の作り手表現者と相通じるものがあるように思わないでもない。
それに、この『ふくしゅうげき京都ver.』は、終盤大きな転調を行う。
正直、それ以降繰り広げられる「変奏」には、若干長さを感じないでもない。
けれど、それが単なる物語の説明や伏線の回収に留まるものでないこともまた事実だ。
この「変奏」を通して、それまで用意周到に距離を保ち続けていた登場人物と穴迫君自身(そっくりさんどころではない、彼自身が出演しているにもかかわらず、出演しているからこそ)、登場人物と彼の切実な願い、彼の痛切な想いがこれ見よがしにではなく、だがしっかりと重なり合う。
きっとその切実な願いや痛切な想いは、上述したアルバイト先の実話ばかりでなく、より根深く根強いこれまでの経験や体験の記憶の反映でもあるだろう。
そして、その切実な願いや痛切な想いがフィクションの中でしか適わないもの、現実には適いようのない儚いものであるゆえに、穴迫君個人のものからより普遍的で一般的なものへと拡がっていくようにも感じた。
その意味で、僕はこの「変奏」に十分納得と理解がいった。
(そうそう、この『ふくしゅうげき京都ver.』を観て、穴迫君の作品の基盤となるものがリズム、韻律、音律というか、「音楽性」であることを改めて確認することができたことを付け加えておきたい)
高杉征司や西村貴治(アクシデントへの対応に何日もの長を感じる)のベテラン勢、田崎小春や平嶋恵璃香(劇団員)の北九州勢とともに、野村明里、倉橋愛美(倉橋さんの演技に接するのは初めてだが、役回りのつき具合もあって強く印象に残った)、小川晶弘、佐々木峻一の演者陣は、ライヴ特有の傷や経験技量の長短はありつつも、役柄に沿った演技を行いながら各々の特性魅力を発揮する努力を重ねていた。
もちろんそこには、穴迫君の個々の演技者と全体的なアンサンブルに対する細やかな目配りとコントロールも忘れてはなるまいが。
いずれにしても、あえて劇場まで足を運ぶに足る作品であり公演だった。
ああ、面白かった!!!
2017年04月23日
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