☆アガリスクエンターテイメント 第23回公演(京都)
『時をかける稽古場2.0』
脚本・演出:冨坂友
文芸助手:淺越岳人
演出助手:倉垣まどか
(2017年4月6日19時半開演の回/KAIKA)
1937年(昭和12年)に封切られた五所平之助監督の『花籠の歌』という映画がある。
東京のとんかつ屋を舞台に、そこに集う田中絹代や佐野周二、徳大寺伸といった人々の日常を幾ばくかのリリシズムと幾ばくかのユーモアを交えてウェットに描いたいわゆる松竹大船調の佳品だが、実はそのラストが非常に印象的だ。
あえてネタを割ると、河村黎吉演じる主人が「あと4年だ、みていろ」と意気軒昂に語るのである。
だが、1937年から4年後の1941年が一体どんな年だったかといえば、それこそ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦した年なのだ。
当然そのことを、映画の作り手たちや公開と同時にこの作品に接した人々のほとんどは予想していなかっただろう。
そして、彼彼女らのその後を考えるとき、僕はどうにもたまらない気持ちになってしまうのだ。
いや、『花籠の歌』に関係する人々だけではない、生身の人間であるかぎり、時の流れを超えることは出来ない。
だからこそ、時よお前は美しいとばかり、少なくともフィクションの世界では時の流れに逆らい時をかけようと僕たちはする。
するのだけれど、そこに人は一定のルールを持ち込もうともしてしまう。
そうしてあるは悲劇が生まれ、あるは喜劇が生まれ、僕たちの前にはタイムトラベル物とでも呼ぶべき作品が山積みにされて来た。
アガリスクエンターテイメントにとって23回目の公演となる『時をかける稽古場2.0』(2014年に初演された作品の「リメイク」)もまた、その名の通り時をかけた人々が登場する作品だ。
舞台はとある若手小劇団の稽古場。
本番2週間前というのに、劇団の作家はほとんど台本を執筆することが出来ていない。
ところがひょんなことから彼彼女らは、タイムマシンとでも呼ぶべきものを発見し…。
と、ここから先はぜひとも劇場で確認してもらいたい。
題名のもととなった『時をかける少女』など先行する諸作品のネタをそこかしこに織り込みつつ、バーバルギャグにサイトギャグをふんだんに盛り込んで、なんとしてでも公演を成功させたいと願う人たちのときに狂おしくときに哀しくときに意地の悪い姿を笑いも豊かに描き切っていて、2時間強全く飽きが来ない。
歌舞伎もかくやと思わせる趣向も嬉しいかぎりだし、この集団の特性となっているある種の「屁理屈」も要所要所で見事に決まっている。
加えて、『ナイゲン』でも重要なモティーフとなっていた集団と個人の関係や集団に発生する無意識の悪意がここでもこれ見よがしにではなく表されている点や、『笑の太字』の終盤でも描かれていた自己予測というか自己確認が明らかに示されている点は、やはり忘れてはなるまい。
というか、着実に受賞を重ね、劇団員も増え、『ゴッドタン』に劇団として出演するなどメディアへの露出もこれからさらに増してくるやに思えるアガリスクエンターテイメント(冨坂さん)がこうした自己予測と自己確認を見せている部分こそ、(実は同様の予測、予感を抱いていた)僕にはこの作品の大きな肝のように思えてならないのである。
むろん、そうでありながら、いやそうだからこそ、諦念断念に終わらず、「それじゃあ今をどうするのか?」という彼彼女らの姿に強く心を動かされるのだけれど。
それに、「我々の作品に対するノスタルジーとか、我々の(3年ばかし延びた)演劇人生に対する考えとか、ついついしんみりしてしまいそうになりますが、時をかけると大抵のものは勝手に切なくなるので、感傷につかまらない速度でふざけていこうと思います」との公演パンフレットの冨坂さんのご挨拶に全く偽りはない。
まさしく一粒で何度も美味しい作品だ。
さいとう篤史に代わって突然の出演となった古屋敷悠をはじめ、劇団員の淺越岳人、榎並夕起、鹿島ゆきこ、熊谷有芳、甲田守、塩原俊之、沈ゆうこ、津和野諒、前田友里子、矢吹ジャンプ、客演の斉藤コータ、ハマカワフミエは、登場人物のキャラクターに沿いつつ均整のとれたアンサンブルを生み出すとともに、個々の魅力をよく発揮していたのではないか。
お芝居の観方としては邪道かも知れないが、台詞を発していないときの役者の皆さんの表情演技にも僕はとても魅かれた。
演劇を信じる人はもちろんのこと、そうでない人にもお薦めしたい作品であり公演である。
日曜まで、残り6公演。
ご都合よろしい方はぜひ!
ああ、面白かった!!!
2017年04月07日
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