☆京都市交響楽団 第606回定期演奏会
指揮:ラドミル・エリシュカ
管弦楽:京都市交響楽団
座席:3階LB1列5番
(2016年10月7日19時開演/京都コンサートホール大ホール)
クラシック音楽の世界には、遅れて来た巨匠、とでも呼ぶべき一群の演奏家たちがいる。
さしずめ、チェコ出身の指揮者ラドミル・エリシュカなど、日本における近年の活躍ぶりからしても、その代表格といえるのではないか。
1931年の生まれというから、今年で85歳。
1968年から約20年間、チェコの地方オーケストラ、カルロヴィ・ヴァリ交響楽団のシェフを務める一方、1996年から2008年まではプラハ音楽大学指揮科教授として後任の指導にあたるなど着実に活動を続けていたものの、彼は知る人ぞ知る存在にすぎなかった。
それが2004年の初来日からは一転。
特に、首席客演指揮者となった札幌交響楽団とは少なからぬCDがリリースされたりして、好調な関係を築き上げている。
また、大阪センチュリー交響楽団(現日本センチュリー交響楽団)や大阪フィルへの度重なる客演で関西でもすでにおなじみだ。
そのエリシュカが京都市交響楽団と初めての共演を果たした。
今回は「京都・プラハ姉妹由提携20周年記念」ということで、スメタナの『モルダウ』、ドヴォルザークの交響的変奏曲に交響曲第9番「新世界から」、とまさしく「おくにもの」が並ぶプログラムだったが、だからこそ、エリシュカという指揮者の特性魅力がひと際発揮されていたように感じた。
その特性魅力を簡潔に言い表わすならば、的確な楽曲把握に裏打ちされた音楽の劇的再現とでもなるか。
カレル・アンチェルやラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマンといった過去のチェコの指揮者たちとも通底しているが、ノイエ・ザッハリヒカイト(精度の高いアンサンブルの構築と正確なテンポ設定)という基本線の上で、歌わせるべきところは歌わせ、鳴らすべきところは鳴らす音楽づくり、と言い換えることも可能かもしれない。
まず、スメタナの連作交響詩『わが祖国』から二曲目にあたる『モルダウ』。
学校の授業等では描写音楽の典型と教えられることの多いこの曲を、「ナショナリズム」の宣言と解き明かしたのは今は亡き林光だったが(チェコの人々にとってはあまりにも当たり前なことであり、改めて説明する必要がない)、あの印象的な冒頭部分からエリシュカは比較的速めのテンポで演奏を始める。
実演録音ともに、これまで何度も耳にしてきた曲だけれど、だからこそ、弦楽器が奏でるおなじみの美しい旋律をはじめとしたアクセントの置き方、リズム(舞曲性)の強調等々、エリシュカの細やかな指示が目に見えるように伝わってくる。
もちろん音楽の全体的な展開がしっかりと把握されていたことは言うまでもない。
若干反応の鈍さを感じた部分もなくはなかったが、京響の面々もそうしたエリシュカの意図をよく汲んだ演奏を行っていた。
二曲目は、ドヴォルザークの交響的変奏曲。
プログラムノートで増田良介が記しているように、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲からの影響が色濃くうかがえる作品である。
確かに両曲とも管弦楽の妙味が引き出された構成となっているが、ブラームスの作品がある種の諦念をためたものだとすれば、ドヴォルザークのほうはより熱情的というか、目まぐるしい感情の変化が強く印象に残る。
自作の合唱曲による厳かさと滑稽さを兼ね備えた主題が、様々な舞曲のスタイルによって変奏されるというつくりで、エリシュカはその一つ一つの変奏の特徴を丁寧に明示していく。
最終盤の音楽的高揚のエネルギッシュでパワフルな表現には、エリシュカの85歳という年齢が信じられないほどだった。
休憩を挟んでのメインは、名曲中の名曲「新世界から」。
ここでもエリシュカの表現にぶれはない。
速めのテンポを維持しつつ、聴かせどころ、音楽のツボをよく心得た演奏を繰り広げる。
加えて、通常慣らされて表現されることの多いフレーズ(土臭いというか、重たいというか、野暮たいというか)の強調もエリシュカはあえて辞さない。
結果、凝集力に富んで新鮮な響きのする音楽が再現されていた。
中でも、「家路」として有名な第2楽章の静謐な表現や、終楽章での畳みかけには強く心を動かされた。
ゲストコンサートマスターに元N響の山口裕之を迎えた京響も、現在の持てる力でエリシュカの要求に応えていた。
いずれにしても、音楽を聴く愉しみに満たされたコンサートで、適うことならば今一度エリシュカと京都市交響楽団の実演に接したい。
ああ、素晴らしかった!!
2016年10月08日
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