2016年09月26日

マハン・エスファハニが弾いたゴルトベルク変奏曲

☆ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲

 独奏:マハン・エスファハニ(チェンバロ)
<DG>479 5929


 あいにく関西は素通りされてしまったものの、今月来日して各地でリサイタルを開催したマハン・エスファハニは、1984年生まれのイラン系アメリカ人。
 現在はイギリスに拠点を移して世界的な演奏活動を行う、若手チェンバリストの大注目株である。
 すでにhyperionレーベルからカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのヴュルテンベルク・ソナタ集とラモーのクラヴサン作品集、さらにARCHIVレーベルからバッハよりグレツキ、スティーヴ・ライヒに到る幅広い作品を収めた『現在と過去』をリリースしてきたエスファハニだけれど、今回彼が満を持して本家ドイツ・グラモフォンに録音したのがこのアルバム、バッハのゴルトベルク変奏曲だ。

 ゴルトベルク変奏曲といえば、グレン・グールドの再発見以来、鍵盤楽器奏者にとって避けては通れぬ作品の一つだが、エスファハニの演奏を一言で表わすならば、「今現在の彼にとってそうあるべきものをそうあるべきように表現した」ということになるのではないか。
 それではわかりにくいというのであれば、同じく漠然とはしていても、「今現在の彼の特性魅力が十全に発揮された演奏」と平板な言葉に言い換えてもよい。
 もちろん、鬼面人を嚇す類いのひけらかしまずありきの演奏とは無縁であることは言うまでもない。
 その意味で、グールド以上のスピーディーでエッジの効いた展開を期待するむきには若干物足りなさを感じさせる演奏かもしれない。
 また逆に、エスファハニの自らの感興に正直な姿勢は、古いドイツ流儀の堅固で統一された音楽世界をよしとするむきには敬遠されるべきものかもしれない。
 エスファハニの演奏は、全体を緊密な世界として構築するというよりも、個々の変奏の持つ特徴を細かく捉えながら、それでいて一つの流れを指し示すことにより重きが置かれている。
 一つの流れという点でいえば、冒頭のアリア(トラック1)から第1変奏(トラック2)への移行。
 激しいテンポの変化によって一挙に場面を切り替えるような演奏とは異なり、エスファハニの場合はアリアの余韻を残したままで変奏を始める。
 また、第15変奏(トラック16。たどたどしさすら感じるようなカノンの歩み)から第16変奏(トラック17)冒頭の強打を経ての第17変奏(トラック18)への移行にも、エスファハニの演奏の特徴はよく表されている。
 ただ、そうしたエスファハニの演奏を単にモノマニアックでマニエリスティックな解釈であると判断することも間違いであろう。
 第19変奏(トラック20)のピッチカートを思わせる奏法や、第26変奏(トラック27)から第29変奏(トラック30)での速いテンポの経過に如実に示されているように、エスファハニの演奏解釈は、チェンバロという楽器の特性性質をしっかりと手の内に収めることによって生み出されたものなのである。

 いずれにしても、80分弱の長丁場だが全篇聴き飽きることない、それどころか繰り返して聴けば聴くほど面白さを感じるCDだ。
 明度の高い録音も、エスファハニの明晰な演奏によく沿っている。
 大いにお薦めしたい。
posted by figarok492na at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | CDレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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