☆Hauptbahnhof Gleis7『和え物地獄変』
作・演出:金田一央紀
(2016年9月2日14時開演の回/アトリエ劇研)
もうしばらく前になるか、石田衣良がモーツァルトのガイドブックを監修するか何かした中で、モーツァルトの音楽と自らの創作を重ね合わせて語っていた。
詳しい文章は忘れてしまったが、どうして自分がモーツァルトの音楽を好むかといえば、しんねりむっつりと内面のことどもを描き表そうとするのではなく音楽は音楽としてスタイリッシュで美しいものに徹しているからであり、自分自身の小説もそうであると石田さんは言い切った。
作品の好き嫌いは置くとして(いや、筋運びがスピーディーで文体も簡潔、キャラクター設定も巧みだし、落としどころもきちんと心得ている彼の作品は、読み物として実に面白い)、石田衣良のその割り切り具合には、大いに感心し、ある種の羨ましさを覚えたりもした。
と、言うのも、日頃はモーツァルト大好き、ばかりでなく、父親のヨハン・セバスティアン・バッハなんかより息子のヨハン・クリスティアン・バッハの陽性で聴き心地のよい音楽が大好きなんて公言してはばからないくせに、深夜明け方にふと目が醒めたりなんかすると、人生とはなんぞや? 死とはなんぞや? 表現とはなんぞや? などなどとない頭を悩ませ、はては己の浅薄さを再認識して落ち込むこと度々だからである。
果たして、そうした逡巡や懊悩を重ねているか否かは定かではないが、主宰するHauptbahnhofのGleis7『和え物地獄変』を観るに、金田一央紀という作家・演出家もまた、自らの立ち位置や在り方について真摯に向き合っている表現者の一人のように思える。
深淵をのぞくことができない人間が、表現者であってよいのか?
と、一言でまとめてしまうと、こちらに引き寄せ過ぎだろうか。
けれど、この『和え物地獄変』という作品が金田一央紀の表現者としてのマニフェストであり、自問自答の解答であることはまず間違いないだろう。
先達からの引用援用や繰り返される言葉遊びには彼の来し方が、勝川春朗改め葛飾阿北斎らの姿には彼の行く末への想い(当然、ここ京都でどういった活動を行っていくかということも含む)が如実に示されている。
と、こう記すと、なんだか芸術至上主義でペダンティックな内容のように思われるむきもあるかもしれないが、実はこれが正反対。
プロの現場で培った手法骨法を活かしつつ、お客さんが観て愉しめるように心掛けたエンターテインメント流儀の舞台となっていた。
そうした金田一さんの創作姿勢や作品の結構には大いに共感し、深く好感を抱いた。
しかしながら一方で、書かれたテキストはしっかり線が通っているようにうかがえるのに、実際の舞台にはどこかピースピースを見せられているような、もどかしさを覚えたことも事実だ。
演者ごとの見せ場もあって、おっと思わせられたり、うんうんと納得したりする場面も少なくないのだけれど、それがどうしても全篇持続しきれていないように思われるのである。
結果、二時間という上演時間が若干長く感じられてしまった。
総勢十九人の演者陣は、各々の特性魅力を発揮しつつ、限られた時間の中で面白く愉しい舞台を造り上げようという努力を重ねていた。
その点、全く疑いようがない。
ただ、表面的な演技の技量技術の長短や経験の差よりももっと内面的な部分、個々の演劇や表現に対するスタンスや方向性の違い、齟齬、無自覚無意識が透けて見えていたことが、僕にはどうしても気になった。
いったいなんのために舞台に立つのか? いったいなんのために演劇に携わるのか? 自分にとって表現するということはいったいどのような意味を持つのか?
演劇とは、舞台とは、単なる自己顕示の場であってよいのか?
この『和え物地獄変』とは、本来演技者一人一人にとってそのことが厳しく問われる作品だったのではないか。
各々の努力健闘を認めるだけに、そうした点を今後の課題にしていってもらえればと思う。
(もちろん、全ての演者陣がそうだと指摘したいわけではない)
若々しさと向日性をためた再生の物語でもあり、「小劇場」という狭い枠に囚われない方々にこそ、ぜひともご覧いただければと願う。
そして、金田一さんとHauptbahnhofの今後の活動に大いに注目していきたい。
2016年09月02日
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