☆第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』(菊組)
作・演出:高間響
(2016年7月1日19時10分開演の回/アトリエ劇研)
誠意って何かね。
とは、頭を下げ続ける田中邦衛と吉岡秀隆の黒板父子に向かって、菅原文太が問いかける言葉である。
おなじみ『北の国から』シリーズ中でも屈指の名場面の一つだが、あの『仁義なき戦い』での誠意のかけらも見えない田中邦衛の槙村政吉を知る人間にとっては、広能昌三・文太兄ぃとのこのシーンはまた違った面白みがある。
それでは、誠実って何かね。
という言葉を皮切りに、笑の内閣を観てのドキドキぼーいずの本間広大君のツイートを題材に、演劇への誠実さに始まって、高間上皇と本間君の違い、より具体的にいえば自らが率いる集団における関係性の築き方、さらには表現者のジェラシーの発露などについて細かく記していこうかと思ったが、本間君が観たのは蓮組な上に、彼が比較の対象としたしようよの公演も観てないくせに、それらしいことを書き連ねるのはそれこそ不誠実の極みなわけで、これはあえて別の機会に譲ろうと思う。
ただ、本間君の考えに首肯できる部分は多々ありつつも、演劇そのものへの誠実さと、演じることへの誠実さ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さは時に別物なのではないかと感じ考え思う、ということだけは記しておきたい。
(誠実さという言葉は使われていないけれど、こうした点に関しては林達夫と久野収の対話対論集『思想のドラマトゥルギー』<平凡社ライブラリー>において様々な形で語られている。西洋哲学や歴史学と専門性の強い内容でもあるが、演劇に対して誠実に向き合おうとする人たちにはぜひともお薦めしたい)
さて、第23次笑の内閣『ただしヤクザを除く』の菊組である。
単刀直入に言って、とても面白かった。
すでに桜組は観ているから物語の展開そのものは充分に承知している。
承知していても、いや、承知しているからこそ、二つの組の違いがよくわかる。
桜組の場合は、高間上皇自身が売りにもしているように、演技面での技術が安定している分、作品の持つ含意がよりはっきりと見えてくる。
言い換えれば、主題の「ヤクザと人権」に加えて、この作品が単なるくすぐりだけではなく、演劇そのもの、並びに笑の内閣、高間響という人とその周囲の人々についても語ったものであることが見えてくる。
ただ、演技面である線までクリアしているからこそ、演技に加え、テキストや演出面でもさらなるステップアップを望みたくもなってくるし、実際そのことを観劇記録にも記した。
一方、菊組に関しては今までの笑の内閣流儀というふれ込みだった。
確かに技量という点では、桜組に何日もの長がある。
だけれど、それが相乗効果を生み出していたというか、自分たちなりの面白い舞台を創り上げていこうという菊組の面々の熱意が僕の観た回ではよく表われていた。
例えば、俊恵さん役の山下みさお。
桜組の森田祐利栄を高く評価していた分、僕は彼女と山下さんを一層比較するのではないかと思っていた。
事実、比較していないといえば嘘になるのだけれど、自らの役柄に対する山下さんの真摯さや、この間の笑の内閣での積み重ねが彼女の演技から伝わってきて充分納得がいった。
桜組とは役回りが違う、工藤役の丸山交通公園も大車輪の活躍。
ワンマンショー後にも関わらず、アドリブを続々かまして笑いを生んでいた。
そして、ラスト間際のアクシデントの活かし方(山下さんも見事に応じていた)。
かつて月面クロワッサンの公演時にも同種のアクシデントが発生して腹を抱えて笑ったが、丸山君はこういう場面に本当に強い。
笑いという意味では、じゃが正横山清正も負けてはいない。
ここぞというところでしゃかりきコロンブスぶりを発揮していた。
(彼は愚直な風貌、シリアスな雰囲気が持ち味であることも事実で、そこが疎かになると笑いのための空回りが悪目立ちしてしまうかもしれない)
丸山君同様、清水役の髭だるマンも「連投」が続いているが、彼は回を重ねるごとに役がますます身についてきているのではないか。
終盤、そのことにもちょっとぐっときた。
しらとりまなの危うさに対して、土肥希理子のヒロインは頑なさと芯の強さが信条。
藤井直樹も自分なりの稲川刑事を造り出す努力を重ねていたし、下楠絵里の松葉も若さゆえの正義感が柄に合っていた。
結果、笑いが豊富で作品の主題、結構のよくわかる舞台に仕上がっていた。
あいにく蓮組を観ていないので断言はできないものの、窮余の策としてとられたトリプルキャスト・組分けという方法は、今後何度か試みられてもよいのではないかと僕には感じられた。
ただ、本間君のツイートにも関連してくる問題であり課題ではあるのだけれど、そうしたトリプルキャストなり組分けがもし継続的に行われるとしても、それは、笑の内閣の今後の方向性を決めるための一過性のもの、プロセスであるということも忘れてはなるまい。
誰と何をどのように創り上げ、それを誰に観てもらうのか。
一つの集団としてどのようにステップアップしていくのか。
そして、高間上皇の迷いや惑いも含めた今後の様々なプロセスこそ、お客さんへの誠実さ、共にお芝居を創り上げていく人たちへの誠実さ、表現することへの誠実さ、ひいては演劇そのものへの誠実さに直結していくのではなかろうか。
2016年07月02日
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