誕生日。
今日で47歳となった。
正直、年齢相応の深さ厚みなど一向になく、つくづく自分を浅薄な人間であると痛感してしまう。
痛感してしまうけれど、それがまた自分であることも事実だ。
与えられた人生は一回きり。
自分自身の為したいこと為すべきことをしっかりと為して、悔いなく生きたい。
そして、絶対に死を忘れないこと。
今年の誕生日は例年に増してそのことを強く思う。
皆さん、今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。
どんよりとした感じはありつつも、青空へ。
と、思っていたら雨が降り出した。
気温も上昇し、暑さが厳しい。
皆さん、くれぐれもご自愛くださいね。
両耳の不調が続く。
安倍首相が改憲に向けた議論を次の国会から行っていきたい(憲法審査会を動かしていきたい)旨、発言したという。
ところが、憲法審査会の議論がまとまっていないので、選挙で争点とする必要は必ずしもないとも発言しているという。
その欺瞞。
この数年間、安倍内閣、並びに与党自民党公明党、加えて癒党おおさか維新等が押し進めている政策の大半を、僕は支持も賛成もしない。
そして彼彼女らの政策の押し進め方、政治的な姿勢、言動の多くは唾棄すべきものだとも思っている。
しかしながら、彼彼女らの欺瞞、卑劣さ愚劣さは、自分自身と異質のものであると思っているわけではない。
彼彼女らの欺瞞、卑劣さ愚劣さは自分自身の内なるものの一端でもあるのだ。
まずそのことを自覚することなしに、彼彼女らや彼彼女らを支持する人々に抗うことはできまい。
昨夜、24時20分過ぎに寝床に就き、7時に起きる。
午前中、テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナ他が演奏したモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』全曲<SONY>、コンチェルト・ケルンが演奏したミスリヴェチェクのシンフォニア集<ARCHIV>を聴く。
いずれも、図書館で借りたCDだ。
クルレンツィスの『フィガロ』は、テキストを綿密に読み込んだ、それでいて活き活きとした劇性と即興性に富んだ演奏である。
フランス革命へと到る時代の胎動を鮮明に表現するとともに、登場人物の感情の変化が細やかに描かれており、非常に刺激的な音楽を聴くことができる。
歌手陣も粒ぞろい。
これはぜひCDを購入して、手元においておきたい。
(すでに、NHK・FMの『クラシックの迷宮』で一部は知っていたし、同じ組み合わせの『コジ・ファン・トゥッテ』でだいたいの予想はついていたが。それでも、全曲を聴いて大正解である)
やっぱり、クルレンツィスとムジカ・エテルナのコンビを京都国際舞台芸術祭(KEX)に呼んで欲しい。
この組み合わせのダ・ポンテ三部作を生で観聴きしたい!
仕事関係の作業を進めたり、今後の創作活動について考えたり、文書類の整理を行ったり、川本三郎の『映画の戦後』<七つ森書館>を読み始めたりする。
午後、バリトンのクリスティアン・ゲルハーヘルがフライブルク・バロック・オーケストラ他の伴奏で歌ったアリア集&交響曲第36番「リンツ」<SONY/BMG>、メゾソプラノのマグダレーナ・コジェナーがサイモン・ラトル指揮エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団他の伴奏で歌ったアリア集<ARCHIV>、ペーター・ノイマン指揮コレギウム・カルトゥジアヌム、ケルン室内合唱団が演奏した戴冠式ミサ曲&ミサ・ソレムニス他<EMI>、クルレンツィスが指揮した『フィガロの結婚』第1幕と第4幕、『コジ・ファン・トゥッテ』第1幕の途中までと第2幕のフィナーレ<SONY/BMG>、とモーツァルトの音楽を聴いたりしながら、仕事関係の作業を進めたり、『映画の戦後』を読み進めたりする。
『映画の戦後』は、「戦後(現代)史」と関わり深い映画関係の文章をまとめた一冊だ。
まもなく外出して、錦湯さんへ。
誕生日の今日も、ネオ落語・セントラルなり。
今回は36回目。
それじゃあ、行って来ます!
2016年06月20日
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