2016年04月29日

犬神家の末裔 第28回

*犬神家の末裔 第28回

 那須駅前のバスロータリーで、なす市民総合病院行きの循環バスを待ちながら、早百合は沙紀との会話について思い返していた。

 女性、だけではない。
 男性だってきっとそうだ。
 この国では、人が物心両面で一個の自律した存在として生きていくことは、本当に難しい。
 もちろん、それは不可能なことではないのだけれど、そうあるためには少なくとも覚悟、というか、なんらかの自覚が必要だと早百合は思う。
 そしてそこには、私負けないといった奮闘努力的な覚悟ばかりではなく、私ってナチュラルだからふふふと鼻歌交じりで口ずさんでみせる矜持や見栄も含まれている。
 そもそも、私たちは一個の自律した存在であることを求められていないのではないか。
 良くも悪くも、社会的組織の一手段であることのみが、私たちの存在理由というか。
 だから、家族であれ、学校であれ、会社であれ、国家であれ、そこから逸脱しようとする者には、手を変え品を変え懐柔と脅迫が行われ、ついに逸脱してしまった者には罰則が与えられる。
 罰則を与えられなくとも、放置され無視される。
 むろん、社会的な組織によって私たちが護られていることも否定できない。
 社会的組織の恩恵は計り知れないし、早百合自身、存分にその恩恵を享受してきた。
 けれど、そうした社会的組織が、時として私たち一人一人の桎梏となり得ることもまた事実だ。
 家族とて同じである。
 赤の他人の夫婦は当然のこと、血の繋がった親子であろうと、兄弟姉妹であろうと、所詮は別の人格なのだ。
 性格が違おうが、趣味趣向が違おうが、思想信条が違おうが、なんら不思議はない。
 そう割り切ってしまった上で、適度な距離感を保っていくことができるとすれば、どれほど楽なことだろう。
 ところがなかなかそういう具合にはいかない。
 それどころか、家族は仲睦まじく愛し合うことが正常であるかのように喧伝される。

 うちとおんなじね
 なかよしね
 わたしもサザエさん
 あなたもサザエさん
 笑う声までおんなじね
 はっはっはっはっ
 おんなじね

 という歌があったけれど、早百合はあの歌を耳にするたび、なんとも言えない気持ちの悪さを感じてきた。
 複製人間(クローン)大増殖。
 家符重製的独裁主義(ファッシズム)。
 だいたい、家族関係の桎梏に金が絡んで爆発したのが、戌神家の事件だったのではないか。
posted by figarok492na at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 犬神家の末裔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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