*犬神家の末裔 第27回
と、そのとたん、沙紀のスマホからクライスラーの愛の喜びが鳴り出した。
だが、沙紀は電話に出ようとしなかった。
すぐに愛の喜びは鳴り止んだ。
「出ないの」
「出なくていいの」
沙紀はそう言うと、再びスマホの液晶画面を早百合のほうに向けた。
着信履歴には、非通知着信、非通知着信、非通知着信の文字が並んでいた。
「えっ、それどういうこと」
「こういうことだぺ」
沙紀の眼から急に涙が零れ出した。
沙紀はスヌーピーのイラストがプリントされたハンカチで目頭を押さえると、すっきりした表情で夫の不倫について語り始めた。
相手は夫の職場の部下で、夫とは一回り半近くも下、沙紀が二番目の子供を妊娠中に付き合い始めた。
沙紀はそのことに全く気付いていなかったが、子供を出産してしばらくすると、急に非通知の無言電話がかかってくるようになった。
なんの気もなく、沙紀が変な電話がかかってくると口にしたとたん、夫は土下座をした。
「俺やっちまった、って言ったんだ」
沙紀は早百合にそう言った。
気の迷いだった、相手とは別れた、相手は松本が実家でそっちに移動になった、相手とはもう連絡もとっていない。
夫は土下座をしたまま、矢継ぎ早に口にしたそうだ。
そして、本当に本当にごめん、とキッチンの床におでこを擦りつけながら謝ったという。
「あの人の禿げかけたおでこが真っ赤になっててさ、もう笑うしかなかった」
そこで沙紀は、冷め切ったカプチーノを飲み干した。
「ほんとは別れようかとも思ったんだ。だけどさあ、子供も生まれたばっかりだし、そういうわけにもいかないからね」
それが二年前。
それ以来、月に一度、判で押したように決まって非通知の無言電話がかかってくる、と沙紀は続けた。
「ちっともずれてないんだよ。うらやましいわ」
沙紀は再び微妙な笑みを浮かべて、よくある話だぺ、と呟いた。
ジャコモを出た二人は、アーケード街の入口のところで別れた。
「書いてもいいよ」
別れ際、おばさんお大事にと言ってから、沙紀はそう続けたが、早百合には返す言葉がなかった。
そして、沙紀に尋ねたいことはいくつもあったが、早百合はどうしてもそうすることができなかった。
2016年04月28日
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