*犬神家の末裔 第19回
翌朝、早くに目が醒めた早百合は、キッチンのテーブルの上に美穂子宛のメモを置くと、パジャマ代わりのスポーツウェアのまま部屋を出た。
マンションの玄関から歩いてすぐのところが那須湖のほとりで、コンクリートで整備された船着き場には、戌神家のボートが網で結わえられて停まっていた。
睦美によると、時折夫の信哉が気分転換に漕ぎ出しているという。
瑞希はもちろんのこと、最近では信光も一緒に乗りたがらないそうで、信哉はそれが不満らしい。
早百合は恐る恐るボートに乗ると、網を外してオールを漕ぎ始めた。
久しぶりだから大丈夫かなと思ったが、えいと力をこめると、あとは自然に両手が動いた。
早百合が自分でボートを漕げるようになったのは、小学校の五年生の頃だ。
早百合ちゃん、自分で漕いでみる。
と、ボートの漕ぎ方を早百合に教えたのは祖母である。
祖母は東京の女子高等師範学校に進学する前は、地元の女学校のボート部の部員として相当ならしたそうで、その漕ぎ方はとても本格的だった。
『犬神家の一族』には、野々宮珠世がボートに乗っている場面が何度かあるが、横溝正史はそうした祖母の細かいプロフィールまで知っていたのだろうか。
見た目とは裏腹に、祖母にはどこか体育会系的な芯の強さがあったのだけれど、横溝正史はその点もまたしっかり踏まえているように思う。
五分ほどゆっくり漕いだところで、早百合はボートを停めた。
あまり遠くまで出ると帰りが面倒だし、無理をすればあとで身体も痛む。
早百合は両手を挙げて、ああ、と大きな声を上げた。
湖面の水鳥たちが早百合の声に驚いて飛び立って行く。
あの日、祖父は三人の遺体をボートに乗せて、ここに投げ入れた。
そのまま遺体を放置しておくわけにはいかない。
どこかに隠さなければならない。
もっとも近い場所にあるのは、この那須湖だ。
おまけにモーターボートもある。
だから、湖に出て投げ入れた。
一応、そう説明はつく。
説明はつくのだけれど、早百合にはどうにもしっくりとこない違和感が残る。
それに、戦争が終わってずっと病弱だったという祖父に、果たして三人もの人間の遺体を運び込むだけの体力が本当にあったのか。
早百合には、そのことも大きな謎だった。
2016年04月20日
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