2016年04月19日

犬神家の末裔 第18回

*犬神家の末裔 第18回

「眠とうなったけん、あたしはもう寝るね」
 美穂子は大きなあくびをすると、来客用の寝室へと消えて行った。
 救急車の微かなサイレンの音が、早百合の耳に届く。
 早百合は風呂に入ることにした。
 いつもながら、大きな浴室だと思う。
 せせこましいユニットバスは苦手なので、浴室とトイレが別れたセパレートタイプのマンションには住んでいるものの、あそことここではあまりにも広さが違い過ぎる。
 それにしても、目の前に張り巡らされた鏡のなんと残酷なことだろう。
 鏡に映る自分の姿に、早百合は小さくため息を吐いた。
 四十を過ぎて急に増え始めた白髪、張りが減って小さな斑点が浮き始めた肌、徐々に前に膨らみ始めた下腹。
 これまで出来るだけ直視しないように努めてきた厳しい現実を一挙に突き付けられたような気がして、早百合はうんざりする。
 そして、母もまた入浴するたびに、自分自身の老いと向き合ってきたのだろうと思い、どうにもたまらない気持ちになった。
 早百合は小さく頭を振ると、くまなく全身を洗ってからたっぷりと湯をはった浴槽に身体を沈めた。
 思わず、はあという声が出る。
 昔の家の風呂はもっと小さかったなあ、と手足を大きく拡げながら早百合は思い出した。
 子供の頃はこうやって浴槽に浸かっているのが嫌で、すぐに出ようとしたものだ。
 にわとりがとんでった、って十回数えたら出てもいいよ。
 そんな早百合に優しく言ったのは、祖父だった。
 小学校の修学旅行で、にわとりがとんでったにわとりがとんでったと繰り返して、だるまさんがころんだじゃないの、と親友の沙紀ちゃんにからかわれたのがとても懐かしい。
 祖父は左の頬に大きな火傷の跡があった。
 それに、背中やお腹、太腿といたるところに小さな火傷や傷の跡があった。
 それ、どうしたの。
 という、幼い早百合の問いかけに、これはねえ、戦争で兵隊に行っていたとき、と祖父は言いかけて言葉を止めると、戦争なんかもう二度とやっちゃいけないんだ、どんな理由があったって戦争は人殺しなんだよ、と哀しそうな顔をして吐き出すように言った。
 戦争は人殺しなんだよ。
 祖父のあの言葉には絶対に嘘がなかった。
 祖父の想いは、幼いなりにも早百合にしっかりと伝わった。
 それなのに、祖父はあんなことをした。
 もう戦争は終わっていたというのに。
 そのことが、早百合にはどうしてもわからないのだ。
posted by figarok492na at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 犬神家の末裔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック