*犬神家の末裔 第3回
早百合が夏目と出会ったのは、彼女が社会人となってしばらくしてからのことだ。
早百合は学生生活の終わりとともに、彼女にとって幸福ではない恋愛にも終止符を打っていた。
だが、
「お前には壁があるんだよ。だから、お前とやっててもちっとも楽しくなかったんだ」
という、前の恋人の別れ際の無思慮な言葉は、早百合の心の中で癒えない傷となって残っていた。
前の恋人の歪んだ表情と一緒にその言葉が脳裏に浮かぶたび、早百合は、死ね、と口にしかけて自分の感情をすぐに押し留めた。
「たとえどんな相手でも、死ねなんてこと言ってはだめなの」
あれは、早百合がまだ幼稚園か小学校の低学年の頃だった。
何かにかっとなって、死ね、死んでしまえと叫んだとき、傍にいた祖母が早百合の目をじっと見つめながら、そう諭したのだ。
それ以来、心の中では、死ね、死ねばいいのに、死んでしまえと思っていても、早百合はその言葉を口に出すことを躊躇うようになった。
もしかしたら、その躊躇いこそ、自分の心の壁を生み出す一因となっているのではないかと思いつつも。
そんな早百合の想いを知ってか知らずか、夏目は彼女に対してとても優しく接しかけてきた。
まるで、最初から壁などなかったかのように。
早百合が勤務する広告会社にイラストレーターとしてよく出入りしていた夏目と親しくなったのは、たまたま休みの日に出かけた新宿御苑でだった。
陽の光を浴びながら大の字になって寝転がっている男性が、なんだかとても気持ちよさそうだ。
おそるおそる近寄ってみると、なんとそれが夏目だったのである。
「夏目さん」
と、声をかけると、夏目は上半身を起こして、おお早百合ちゃんと言った。
さらに早百合が近寄ると、夏目は再びごろんとなって、
「こうしてるとさあ、次から次にアイデアが浮かんでくるんだよね」
と、さも嬉しそうに続けた。
思わず早百合も夏目の横にごろんとなって、手足を大きく拡げ、ううわあと声を出した。
夏目も早百合を真似して、ううわあと声を出した。
夏目と付き合い始めてすぐに、父が亡くなった。
入院して僅か二週間。
早百合には、ゆっくり別れの言葉を父と交わす時間が与えられなかった。
混乱する早百合を自動車で那須の実家まで送ってくれたのも、夏目だった。
お願いだからお通夜や葬儀にも出て、と早百合は口にしたが、それはだめだよ、と言って夏目は東京へと戻って行った。
早百合が夏目を母に紹介したのは、父の一周忌の席だった。
夏目が同行することは、すでに電話で知らせてあった。
母は、そうなのとだけ素っ気なく応えた。
「私にとって大事な人なの」
「よろしくお願いいたします」
二人が頭を下げたとたん母は、あなたたちはこんな場所で、なんてふしだらな、常識知らずで恥知らずの男、情けない、うちには分ける遺産なんてない、と切れ切れの言葉で罵り始めた。
「こんなことぐらいで取りのぼせてどうするの」
と、大叔母の小枝子に平手で頬を叩かれて、母はようやく正気に返ったが、今度は夏目が立ち上がり、一同に深々とお辞儀をすると、黙ってその場を去って行った。
それっきり、早百合は夏目と連絡がとれなくなった。
人づてに、夏目が郷里の帯広に戻ったと聞いたのは、それからだいぶん経ってからのことだ。
今となっては、夫を亡くした哀しみや、一人娘を奪われてしまうかもしれない動揺や、さらには親類縁者を前にした緊張といった心の中の諸々が、一瞬母を狂わせてしまったのだと想像することはできるものの、あの日の母の醜い顔を早百合はどうしても忘れることができない。
2016年04月07日
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