2016年03月12日

京都市交響楽団 第599回定期演奏会

☆京都市交響楽団第599回定期演奏会

 指揮:高関健

 会場:京都コンサートホール大ホール
 座席:3階LB1列5番
(2016年3月12日14時半開演)


 京都市交響楽団の定期演奏会を聴くのは、2010年6月19日の第536回以来だから、約5年ぶりとなる。
 今回の定期では、奇しくもそのときと同じ高関健(常任首席客演指揮者)が、自らにとってライフワークの一つと呼ぶマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を指揮したのだけれど、高関さんの成熟と京響の好調を感じさせる、非常に聴き応えのある演奏となっていた。

 高関さんの実演には、京都会館時代の京都市交響楽団の定期や、かつてシェフの座にあった大阪センチュリー交響楽団の定期で、度々接してきた。
 機智に富むプログラミングと、細部まで目配せの届いたオーケストラ・コントロールには、常々感心し、見通しのよい音楽を聴くことができたと大いに納得したものだ。
 ただ一方で、智に働けば−角は立たないものの、エモーションに不足するというのか、腹の底から揺り動かされるには、何かが僅かに欠けるもどかしさを感じていたことも事実である。
 例えば、先述した第536回定期で演奏された、同じマーラーの交響曲第7番「夜の歌」など、高い水準の演奏である反面、狂躁的には陥らない音楽づくりに、それが高関さんの美質と知りつつも、若干物足りなさを覚えたりもした。
 ところが、今回の「悲劇的」には、掛け値なしに圧倒された。
 と、言っても高関さんの音楽性が表面的に大きく変化したわけではない。
 それどころか、プレトークやレセプションでのトークで高関さんの言葉にもあったように、第2楽章にアンダンテ、第3楽章にスケルツォを置くなど最新の楽譜を使用し、マーラー協会とやり取りを重ねた上で、自分自身の書き込みも加える等、徹底した楽譜、ばかりか音楽の行間の読み込みは一層精緻さを増している。
 だからこそ、神は細部に宿る、ではないけれど、そうやって再現された音楽そのものが、作曲家の意図や作品の持つ正負のエネルギーを余すところなく顕現させるのである。
 マーラーが単に交響楽の優れた作曲家であるばかりではなく、秀でた劇場感覚の持ち主であることを証明する楽曲の構造構成はもちろんのこと、アンダンテ等での抒情性、旋律美、スケルツォ等での確信犯的な悪ふざけ、そしてそうした全曲を通底する劇性、悲劇性。
 マーラーの交響曲第6番「悲劇的」とはなるほどこういう音楽であったかと腑に落ちるとともに、その圧倒的な力に強く心を動かされた。

 当然、ソロ、アンサンブル両面で高関さんの意図によく沿った京都市交響楽団の充実した演奏を忘れてはなるまい。
 世評通り、京響は現在一つの音楽的なピークを迎えていると痛感した。
 それだけに、僕ら聴き手もまた、音楽の余韻をもっとたっぷり愉しめるようになって(それは、音が鳴り終わったとたん拍手をしてしまう、といった表層的なことだけではなく)、京都市交響楽団のさらなる進化を支えていければと思う。

 ああ、素晴らしかった!
posted by figarok492na at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | コンサート記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック