監督:ジュリー・テイモア
(2014年/アメリカ)
>まあ、あなた、そんなに啞か何か見たように黙ってらっしゃらないで。
ね、何とか仰しゃいませよ<
(水村美苗『続明暗』<新潮文庫>115ページより)
水村美苗の初期の作品に、夏目漱石の未完の長篇『明暗』を書き継いだ『続明暗』がある。
漱石後期特有のいじいじうずうずいーっとした感じが乏しい点はひとまず置くとして、女性の視点、特に津田の妻お延の心境の変化に多く筆が割かれた点、強く印象に残る作品だ*。
京都国際映画祭の一環として上映された、ジュリー・テイモア監督の『夏の夜の夢』を観ながら、ふと『続明暗』を思い出したのは、表面的な状況や作品の様相は異なりつつも、作品終盤のハーミアやヘレナの姿に、お延と通ずるものを感じ、さらにはテイモア監督と水村美苗の表現姿勢につながるものを感じたからかもしれない。
『夏の夜の夢』は、言わずと知れたシェイクスピアの戯曲をテイモア監督自身が演出した公演を、様々な映像的手法を駆使して撮影したものである。
(戯曲の演劇的な上演を映画化したものとしては、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』によるルイ・マル監督の遺作『42丁目のワーニャ』があるが、あちらは通し稽古という体だったように記憶する)
本格的な公開はまだ先ということもあって、あえて詳細に関しては触れないが、登場人物たちの愛にまつわる心のもつれとともに、上述したようなジェンダー・フェミニズム、人種、LGBTといったいわゆる「ポリティカル・コレクトネス」の問題を踏まえつつ、先行諸作品のエッセンス(そこには、テイモア自身の『ライオンキング』はもちろん、日本の作品も含まれていると思う)を盛り込みながら、テイモア監督は『夏の夜の夢』にシェイクスピア作品の肝や尖鋭性、時代的制約を巧みに浮き彫りにしていく。
が、こう書かれたからといって、何やら小難しくてわかりにくい映画だと思ったら大間違い。
原作の持つ物語の面白さとスピーディーなテンポに、見世物小屋的な趣向、邪劇性、映像的な仕掛けをぶち込むことで、二時間半という長尺を感じさせないエンターテイメント性にも富んだ作品に仕上がっている。
また、役者陣の一挙手一投足も、そうした監督(演出)の意図によく沿っており、台詞遣いの美しさ(シェイクスピアのテキストそのものの美しさ)からして、ああこれは適わないなあと思わされた。
特に、演劇関係者に強くお薦めしたい一本だ。
と、こう記しつつ。
上述したあれこれや、ところどころ感じるオリエンタリズム、芸術的なほのめかしも含めて、この作品の寓意、含意、正負の両面、英米圏でのシェイクスピアの受容、血肉化が、この国でどの程度理解されるのだろうと考えてしまったことも事実である。
そしてそのこと、彼と我との違い、欧米の文化文明の表面的な受容と根底にある断絶、翻訳可能性と不可能性といった事どもに関する葛藤を表現したのが、まさしく漱石であり、水村美苗の『私小説 from left to right』ではなかったろうか。
*ほかに、『明暗』に触発された作品として、永井愛の『新・明暗』がある。『明暗』を現代に置き換えた戯曲だが、これまた劇的効果と刺激に満ちた作品だ。
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