☆ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番、第14番、第21番
独奏:アレクセイ・リュビモフ(フォルテピアノ)
録音:1992年12月7日〜12日 パリ・サル・アディヤール
デジタル・セッション
<ERATO>4509-94356-2
俳優で文学座代表の加藤武が亡くなった。
加藤さんは東京の築地で生まれ、麻布中学・高校、早稲田大学で学んだのち、一時教職を経て文学座研究所に入り、以後演劇、映画、テレビの世界で活躍した。
幼い日から芸能芸事に親しみ、中学高校大学(なにせ中学時代の同級生は小沢昭一、仲谷昇、フランキー堺、大学時代の友人は北村和夫に今村昌平だもの)、さらには作家・演芸評論家の正岡容門下として切磋琢磨した加藤さんには、いわゆる新劇で純粋培養された人間では持ちえない幅の広さと味わいの深さがあった。
また、そうした加藤さんだからこそ、あの久保田万太郎を創立者の一人とする文学座が水に合っていたようにも思う。
一本気でからっと乾いた正義感と、そのコインの裏表にある浅薄さ、粗忽さが醸し出す滑稽さを江戸っ子気質の一つと定義するならば、加藤さんはまさしく江戸っ子らしい特性を備えた役者だった。
むろん、それは単純に無意識なまま垂れ流されるものではなく、落語、寄席、芸人の世界に通じることで獲得された客観性によって洗練され、自覚化されたものだったろうけれど。
そして、洗練され自覚化されてなお垣間見える加藤さんのフラ、素のおかしみが彼の演技に柔らかさを加えていた。
巷間伝わる悪友小沢昭一や北村和夫らとのエピソード、加藤さん本人が綴った文章からもそれは充分にうかがえる。
そうした加藤さんの当たり役の一つが、市川崑監督による横溝正史=金田一耕助シリーズにおける橘署長であり、等々力警部だ。
警察という権力の側にあって、なおかつ強固な正義感の持ち主ながら、どうにもおっちょこちょいでにくめない。
市川崑監督の人物造形も当然そこにあるとはいえ、加藤武という役者人間の存在なくば、とうてい成立しえなかったキャラクターである。
そのような加藤さん演じる橘署長なり、等々力警部なりが、アレクセイ・リュビモフがフォルテピアノを弾いて録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ集のCDがあると耳にしたならば、一体如何なる反応を示すだろうか。
きっと彼ならば、そう耳にしたとたん、中身も聴かずにこう判断するだろう。
なに、リュビモフのベートーヴェン、そいつの写真はあるのか、うんこれか、なんだこの禿げ頭に分厚い眼鏡は、おまけに髭まで生やしているじゃないか。
そういや、ソ連にはアファなんとかエフという名前の変なピアニストがいたな。
あっ、この前ウゴルスキとかいう男のベートーヴェンを聴いたが、あれもおかしかったぞ。
よし、わかった!
このCDはいかがわしい!
さすが橘署長なり、等々力警部なり。
人を見かけで判断して大失敗の好例、ならぬ悪例である。
(そうそう、ずいぶん前にみのもんたがそれで大きな失敗をやらかした。あれは本当にひどかった)
リュビモフの容貌は独特だけど、アファナシエフほどには狂気は宿っていないだろう。
このCDに聴くリュビモフのベートーヴェンは至極真っ当である。
上述したアファナシエフやウゴルスキはもちろんのこと、先日レビューをアップしたオリ・ムストネンの演奏に比べても、リュビモフの弾くベートーヴェンは、一般的にイメージされるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏に非常に近い。
確かに、1806年製のブロードウッドのフォルテピアノを使用してはいるが、いやブロードウッドの硬質な音色も加わってなおのことその感は強くなる。
同じ旧ソ連でいえば、エミール・ギレリスの強固な演奏を思い出すほどだ。
そんなリュビモフの演奏だから、哀切感あふれる第8番「悲愴」の第2楽章や不穏さと狂気を秘めたような第14番「月光」の第1楽章よりも、第8番の両端楽章や第14番の終楽章の芯が強くて激しい響きの中にふと垣間見えるロマン主義の萌芽、仄かな叙情性に魅力を感じる。
(加藤さんの演技でいうならば、黒澤明監督の『悪い奴ほどよく眠る』のラスト間際、加藤さん演じる板倉=西の慟哭「これでいいのか、これでいいのか!」にもしかしたら繋がる表現であり、感情かもしれない。余談だけど、東京大空襲に見舞われ祖母を看取った加藤さんは、この板倉=西を演じる時、そのことをどこかで意識していたのではないか)
また、第21番「ワルトシュタイン」では、一皮むけたというか、ベートーヴェンの表現の変化がよくとらえられている。
じっくりベートーヴェンを聴きたい人、見た目でだまされたくない人、加藤武が大好きな人に強くお薦めしたい一枚だ。
2015年08月03日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック