☆第20次笑の内閣『名誉男性鈴子』
作・演出:高間響
(2015年5月17日15時半開演の回/シアトリカル應典院)
あれは大学の3回生になってしばらくしてからのことだから、かれこれ25年近く前のことになるか。
立命館大学には、女子学生の権利拡充等を目的とした女子学生委員会という組織があって(今もある?)、何かのきっかけで全学部の委員会の総会に参加することがあった。
で、そのとき他学部の委員の女性(当方は文学部。彼女は産業社会学部だったかな)と親しくなってあれこれ話をした。
フェミニズムや女性の社会進出の問題ばかりでなく、そのときは恋愛やセックス(処女性のこととかゲイのこととか)についても話題になった。
その際、彼女が口にした、
「女の敵は女って言葉、いろいろと考えてしまうなあ。恋愛のこととかだけじゃなくて、それこそおっさん化しなくちゃ社会進出も出来ないだろうし。逆に、その足を引っ張る女もいるし。フェミニズムなんて糞喰らえていう女もいるし。まあ、男の問題、てかもとはといえばシステムそのものの問題もあるんだけどね」
といった趣旨の言葉が強く記憶に残っている。
そうそう、そのとき彼女に薦められた刊行されたばかりの、エリザベート・バダンテールの『母性という神話』(今手元にあるのは、ちくま学芸文庫版)は、今も愛読書の一つだ。
それにしても、リベラルな姿勢で知られた小山内美江子が執筆した脚本の人気ドラマで一世を風靡した元アイドルが「八紘一宇」だなどと国会で口走らされたり、極端で稚拙極まる思想信条の持ち主がこの国初の女性首相か?などと持ち上げられたりするような今の惨状を、彼女は想像しえただろうか。
昔話はこれくらいにして。
舞台は岡山県の南アンタレス市(南アだよ、南ア)。
3期12年間務めた現市長の後継者に指名されたのは、市議会議員の黄川田鈴子。
「輝く女性の未来のため」初の女性市長となるべく、選挙戦を戦う彼女だったが…。
といった展開の、第20次笑の内閣『名誉男性鈴子』は、タイトルにもある通り、男性上位社会の中で、戦略手段としてだけではなく、精神的にもマチズモに侵蝕されてしまった女性政治家=名誉男性とその周囲の人々の姿を通して、現在のこの国の性(ジェンダーとセックス双方)の問題や差別の問題、社会的圧迫等、様々な問題を描き上げようとした作品である。
まずはそうした事どもが、借り物の言葉でなく、高間響自身の「我が事」として語られていたことに、僕は共感を覚えた。
むろんそこは、高間上皇と笑の内閣だから、くだらないこと百も承知のくすぐりや下ネタ(松田裕一郎の表情!彼の部屋ですき焼きパーティーをやったときの発言の数々をすぐさま思い出してしまう)、さらには他団体への当てこすり等々、笑の仕掛けもふんだんに用意されているのだけれど、そのことに加えて、伊丹想流私塾での研鑚もあってか、前回の第19次笑の内閣の『超天晴!福島旅行』(2014年10月19日、アトリエ劇研)より一層、劇の構成や台詞遣いなどに洗練というか、まとまりを強めてきているように僕には感じられた。
だからこそ、登場人物の人物像のさらなる描き込みや、いったん築かれたピーク以後の処理などより精度を求めたくなる部分も少なくはなかったのだが、やはり高間上皇のそうした変化はきちんと指摘しておくべきだとも思う。
(プラスの意味でのアクの強さや濃さは残しつつも、髭だるマンなど、そうした変化に反応していたのではないか。彼があまり見せないようにしている内面の繊細さやナイーブさをあえて高間上皇にはもっと引き出してもらいたい)
演者陣では、まずもって黄川田鈴子を演じたピンク地底人2号が強く印象に残る。
単なるキャラクター的な魅力や、表現力、エネルギーばかりではなく、ピンク地底人や「ピンク地底人2号と浅田麻衣のろうどくの会」(あいにく未見)での一連の経験とそれが導き出したものも透けて見える演技だった。
また、重要な役回りを担った楠海緒も、高間上皇のあて書きもあってだろうけれど、良い意味での彼女の自己顕示性や賢しさが役柄とよくシンクロしていた。
達者なしゃくなげ謙治郎と黒須和輝、安定した金原ぽち子、真摯な廣瀬愛子、雰囲気のよい大牧ぽるんに石田達拡と、ほかの演者陣も、経験の長短や技術の巧拙といった各々の課題はありつつも、個々の魅力と特性を発揮していた。
(由良真介も一部出演)
さらなる高間上皇の作劇の変化に演者陣がどう沿っていくか、もしくはそうした変化にキャスティングをどう合わせていくかが、笑の内閣の今後の課題になっていくのではないだろうか。
残すところ公演もあと1回。
多くの方々にぜひともご覧いただければ。
2015年05月18日
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