2015年04月27日

堕天使の解(月亭天使さん主催の落語会)

☆堕天使の解(月亭天使さんの落語会)
 −天使になれないなら せめてまともな 猫になりたい。−

 ゲスト:桂米紫さん、月亭方気さん
(2015年4月26日18時半開演/大阪・八聖亭)


 人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
 だが人間は永遠に堕ち抜くことはできないだろう。
 なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。
 人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

 とは、坂口安吾の『堕落論』の一節だが、「堕天使の解」という月亭天使さんの落語会のタイトルを目にして、ふと『堕落論』のことを思い出した。
 堕天使の解。
 天使さんの散文的なセンスの高さが示されていることはもちろん、天使という名前そのままに高みを目指そう高みにあろうという気持ちとあえて低きに重心を置こうとする心意気、ばかりではなく、天使のような純真無垢にも堕天使のような業の全肯定、叛逆独尊にもいられない天使さんの今現在、言い換えれば天使さんの自負と矜持、逡巡と自省がよく表わされているという意味で、非常に優れたネーミングだと僕は思う。

 一席目の『ちょーたんき』のマクラでは、そうしたこととも繋がりがありそうな、女性が落語を演じることについての天使さんの想いが、作品の紹介を兼ねて語られていた。
(ほかに、伝説のギリヤーク尼ヶ崎!と遭遇した話も)
 古典の『長短』を現代の女友だち二人の会話に置き換えた『ちょーたんき』といえば、昨年12月8日のネオラクゴ・フロンティアsection10でネタおろしされた作品だが、二人のやり取りやくすぐりがしっかり練り上がってきていて嬉しい。
 中でも、「長」の側の女性のみゅわもちゃあっとした感じがおかしかった。

 続いては、急遽出演が決まった方気さんが『延陽伯』を演じる。
 やたらと言葉遣いがよろしい「延陽伯」なんて名前の女性と、彼女を妻に迎えた男との珍妙な掛け合いが肝となる噺。
 江戸落語では、『たらちね』の名で親しまれている。
 方気さんは先週のネオラクゴ・フロンティアで接したばかりだけれど、流れの良さ、調子の良さが身上といった具合で、男のほうの軽妙な滑稽さが強く印象に残った。

 三席目。
 『黒猫のタンゴ』の出囃子にのって天使さんが再び登場し(お召し物も噺に合わせて猫っぽい柄)、『元猫』をかける。
 『元猫』は、おなじみ『元犬』を今夜のゲスト米紫さんが猫を主人公に仕立て直したものだ。
 天神さんにお願いをして人間となった白犬、ならぬ白猫が巻き起こす騒動を描いたお話だが、天使さん同様猫好きという米紫さんだけに、猫らしさが巧くくすぐりに取り入れられている。
 また、猫好き云々はひとまず置くとして、キュートで抜けているという猫→人間の役回りは、天使さんの特性によく合っているのではないか。
 またぜひ聴いてみたい。

 中入り前の米紫さんは、はめもの入りの噺のリクエストに応えて『遊山船』、と思っていたら、なんと『ちょーたんき』のマクラで天使さんが噺の大切な部分をまんま口にしてしまったため、珍しい『堺飛脚』に変更。
 米紫さんの生の落語を聴いたのは、まだ都んぼ時代の染屋町寄席か何か以来だから、もう15年近く前になるのではないか。
 攻める、押すというか、パワフルに前に繰り出す姿勢が堂に入ってきているように感じられた。
 笑いの勘所をぽんぽんと押さえつつ、絵がきちんと目に見えるような小気味いい高座に仕上がっていた。

 そして、中入り後は、天使さんが『つぼ算』に挑む。
 ちなみに、マクラはお土産のおスル(都こんぶを一回り大きくしたような、薄い板状のスルメ。砂糖で味付けしてあって美味。ごちそうさまです!)を買いに行ったついでに、母校龍谷大学深草学舎近辺をぶらぶらしたお話。
 数年間同じ場所に通っているだけに、あああそこと見当がつく。
 で、アホを引き連れて瀬戸物屋に向かった男は、ずるいやり口でもってまんまと二荷入りの水甕(つぼ)を手に入れる…という展開の『つぼ算』だけど、今夜の天使さんは男と番頭の駆け引き、悪意の表出よりも、番頭の困惑ぶりに重きを置いていたように思った。
 新しいネタということもあってか、話の流れを追ったり話を置きにいったような感じになっている部分もなくはなかったが、番頭の弱さ、ひいた感じがさらに高じれば見事な「ゲシュタルト崩壊」となるに違いない。
 これまた次回が愉しみだ。

 と、中入りありの5席で、約2時間半。
 久しぶりの古典の落語会を愉しみました。
 天使さんはじめ、皆さんお疲れ様でした。

 ところで、坂口安吾は、『堕落論』に続く『続堕落論』を以下の言葉で締めくくっている。

 我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。
 人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。
 何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。
 そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。
 堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ずきびしく見つめることが必要なだけだ。

 これは僕が表現すること、何かに向き合うことに悩んでいる際によく思い返す言葉であるのだけれど、天使さんにも一歩一歩、一回一回、天使さんらしい解を見つけていってもらえればと心から願う。
posted by figarok492na at 02:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 落語・ネオ落語記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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