アレクセイ・ドミトリエヴィッチ・アルカシンスキーは、ヴァレリー・グリゴリエヴィッチ・ナシュタートフから借りた歴史学のノートの隅に記されたその言葉に目を留めた。
歴史学の講義(それはどうにも退屈なものだった)については黒い万年筆で克明に記されているにも関わらず、モーリスと水素という言葉は、青いボールペンで薄く走り書きされているだけだった。
ノートの前後を確認してみたが、そこにはあまり賢いとは言えないピョートル三世の治績と生涯が書き連ねてあるだけで、モーリスと水素という言葉との関連性は全くうかがうことができなかった。
アルカシンスキーは、彼にノートを手渡すときのナシュタートフの様子を思い起こしてみた。
「明日から旅に出る。愉しい旅だ」
そう言ってナシュタートフは微笑むと、ゆっくりとアルカシンスキーに右手を差し出した。
握手は彼の癖だった。
アルカシンスキーは、モーリスと水素という言葉の意味をはかりかねた。
なぜなら、ナシュタートフは旅先で自動車に轢かれて亡くなってしまったから、もはや彼に尋ねてみることは適わないのだ。
ただモーリスと水素という言葉が、アルカシンスキーとナシュタートフの間でさまよっている。
アルカシンスキーは、自分の日記にモーリスと水素という言葉だけを書き写した。
亡き友人に倣って青いボールペンで。
モーリス・エ・ハイドロジェン。
イリーナ・アレクセエヴナ・アルカシンスカヤは、父の遺した日記に…。
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