元禄八年の冬、母方の伯父である鳥取藩の国家老荒尾氏のもとに身を寄せていた俊藤修理は、かつての同輩十河弾正より届いた書状に目を通し、そう嘆息した。
書状には、播磨国三日月藩三万石の藩主で先頃奏者番に任ぜられたばかりの高遠摂津守有宇が江戸藩邸において激高した家老職の塩見豊後によって刺殺されたこと、さらにはそれがすでに御公儀の耳にも達し、三日月藩の改易が免れぬだろうことが記されていた。
弾正は、摂津守の日頃の言行が今度の御沙汰につながったものとも付け加えていた。
幕政進出の野望を胸に、策謀の限りを尽くしておられたあの方がこうも易々と亡くなるとは。
世の中とは、なんと不可思議なものか。
と思う反面、修理は因果応報、当然至極とも考えざるをえなかった。
あの方は、一度たりとて腹の底から笑ったことのないお方だった。
目の底はいつも笑ってはおられなかった。
人を利用する術はよく心得られておられても、人の心を動かす術は全く心得られておられなかった。
それがまた、家臣一同ばかりか、民百姓にまで見抜かれてもいた。
しかも、家臣が諫言を重ねれば諫言を重ねるほど不機嫌の度合いを増し、結果身近な場所より遠ざける始末だった。
一度丹後宰相頼尋卿よりその姿勢を厳しく叱責されたる際も、ただただ自らの手元の扇子を見つめるばかりで言葉もなく、頼尋卿立ち去りしあとは、あの老候を失脚させる手立てはないものかと俄然怒りの声を上げ、塩見豊後の心を強く苦しめたものだ。
その塩見豊後があの方を殺したのである。
何か途方もないことが起ったに違いない。
と、修理は思い到らざるをえなかった。
【関連する記事】