☆ロリン・マゼールの死を悼む
>(前略)私がまず感ぜずにいられなかったことは、(中略)彼は(略)、まるで世慣れない、人見知りをする、一介の白面の青年にすぎないようなところのある点である。
(中略)
それから、<実人生>を前にした時の、彼の困惑。
そういうものも、私はよく彼の目の中にみた。
もちろん、彼の目が、いつも、そういう色で染まっているというのではない。
ことに彼の顔全体の中で、官能的なものといえば、ただ一つ比較的厚い唇なのだが、その唇も肉感的なものを感じさすのはむしろ開かれている時で、上下の唇が結ばれていると、そこには、もう、何か「素朴なまま」ではありえないような、ある表情が浮かんでくる<
上記の人物評を目にして、果たしてどれだけの方が、指揮者ロリン・マゼールを想像することができるだろうか。
「比較的厚い唇」、というあたりがヒントになるのかもしれないけれど、後年の「やってるやってる」感あふれるマゼール像しか知らない人たちには、この吉田秀和の一文(『世界の指揮者』<ちくま文庫>所収、マゼールの章より)は、相当驚きをもって受け止められることと思う。
例えば、ちょうど手元にある、マゼールがウィーン・フィルを指揮したラヴェルの管弦楽曲集<RCA、1996年6月録音>一つとってみても、彼のあざとさわざとらしさは明白だ。
作品の持つドラマティックな性格をよく表現した『ダフニスとクロエ』組曲にスペイン狂詩曲はまだしも、おなじみラ・ヴァルスとボレロのあくの強さ。
中でもボレロなど、それこそ『柳生一族の陰謀』のラストでの萬屋錦之助の演技を観聴きしているかのような大芝居ぶりである。
しかも、あなた萬屋の場合は、計算の上ではなから大仰な演技を重ねているのに対し、こなたマゼールは、しれっとした顔でずっとタクトを振りながら、終盤に到ってここぞとばかりに大見得を切る。
一聴、ああこの人はまた、と妙に感心してしまったほどだ。
ただ、そうした晩年のマゼールを知っているからこそ、1960年代の彼を活写した吉田秀和の文章が、かえって強く心にも残るのである。
そして、>私は、何も、彼の人相見をしているわけではない<と断っているが、吉田秀和の人間観察の鋭さには舌を巻かざるをえない。
1930年3月6日の生まれだから、84歳ということになるか。
先頃HMVのインターネットサイトの許光俊のコラムで、マゼールの音楽が変わってきていること、ここ数ヶ月のスケジュールがキャンセルされていることを知り、もしかしたらとうすうす感じてはいたものの、まさかこうも早く彼が亡くなるとは思ってもみなかった。
90過ぎまで生きて、それこそ最晩年のストコフスキーのような音楽を聴かせることになるだろうと思っていたからだ。
そのロリン・マゼールが亡くなってしまった。
幼い頃からヴァイオリンとピアノを学び、なんと8歳でアイダホ州立大学のオーケストラを指揮する。
9歳のときには、ニューヨークの世界博覧会の特別編成のオーケストラを指揮。
さらに、NBC交響楽団やニューヨーク・フィルの指揮台に立ったのは僅か11歳というのだから、まさしく神童と呼ぶほかない。
それでも、ピッツバーグ大学で哲学と語学を学ぶ傍ら、順調に音楽の研鑚を続け、ピッツバーグ交響楽団のヴァイオリン奏者や副指揮者を務める。
そして、1950年代にはヨーロッパに渡り、ベルリン・フィルとのレコーディングを皮切りに、ウィーン・フィル等一流のオーケストラとの録音を開始する一方で、1960年代半ばには、ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)やベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任するなど、コンサート・オペラ両面での活動を本格化させた。
吉田秀和がマゼールと出会い、彼の人物や音楽について記したのもこの頃のことだ。
(同じ時期に録音した、ベルリン放送交響楽団とのモーツァルトの交響曲第25番&第29番の中古LP<コンサート・ホール>を高校時代よく聴いていたが、出来の良し悪しはひとまず置くとして、当時のマゼールの鋭角な表現、若々しい音楽づくりがよく表われていた)
その後、1972年にジョージ・セルの後任としてクリ―ヴランド管弦楽団の音楽監督に就任したあたりから、マゼールの楽曲解釈がバランス感覚を重視した安定志向へと変わったと評されているが、この点に関しては、同時代的に彼の演奏録音に触れることができていないため、あえてどうこう述べることはしない。
僕がクラシック音楽を積極的に聴き始めた1984年は、ちょうどマゼールがウィーン国立歌劇場の総監督を辞任した年にあたるのだけれど、その前後のウィーン・フィルとのニューイヤー・コンサートにしても、同じウィーン・フィルとのマーラーの交響曲全集<CBS>(加えてフィルハーモニア管弦楽団とのワーグナーの序曲前奏曲集<同>)にしても、オーケストラを巧くコントロールした、均整のよくとれた演奏だという印象が残っている程度だ。
(マゼールは、渡辺和彦との対談で繰り返しマーラーの人と音楽の「健康」性について指摘している。『クラシック辛口ノート』<洋泉社>所収、「不健全」なマーラー像を超えて −マゼールは語る、をご参照のほど)
そうしたマゼールの音楽がさらなる変化を遂げたのは、1990年代に入ってからではなかったか。
『金色夜叉』の間貫一ではないけれど、ベルリン・フィルのポスト・カラヤンを巡る争いでクラウディオ・アバドに破れた腹いせなんて見方もなくはないが、マゼールは商業主義云々といったわかりやすい言葉だけではくくれない、一癖も二癖もある、一筋縄ではいかない演奏を披歴するようになった。
ウィーン・フィルとの峻烈な演奏<DECCA>と比較して、あまりにもグラマラスで、ためやデフォルメの多いピッツバーグ交響楽団とのシベリウスの交響曲<SONY>。
これまたウィーン・フィルとの録音<同>は、アンタル・ドラティの如き職人芸の域に留まっていたのが、小沢昭一に大泉滉、三谷昇もかくやと思わせる大騒ぎの怪演に転じたバイエルン放送交響楽団とのチャイコフスキーの1812年やベートーヴェンのウェリントンの勝利<RCA>。
おまけに指揮するだけでは飽き足らず、ヴァイオリンのソロのアルバム<同>はリリースするわ、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』&『ドン・ファン』他のCD<同>では、演奏自体はそこまでぶっとんでいないのに、魔術師か手かざし療法士かというまがまがしいジャケット写真を使用するわ。
バイエルン放送交響楽団との来日公演(1993年3月25日、愛知県芸術劇場コンサートホール)での実に堂に入ったブラームスの交響曲第1番も、休憩前の同じブラームスの交響曲第2番が作品の持つぎくしゃくした感じをあまりにも強調した演奏だっただけに、どうにも嘘臭さを感じてしまったものだ。
そういえば、このコンサートのしばらくのちにヨーロッパを訪れて、たまさかドイツとウィーンで音楽関係者の方とお話をする機会を得た際、このマゼールのコンサートについて触れたところ、お二方がお二方とも、「マゼールはねえ…(苦笑)」という反応を返して、少し驚いたりもしたんだった。
お二方とも生粋のヨーロッパ人だったが、フランスで生まれつつもすぐにアメリカに渡ったマゼールに対して、詳しくは触れないながらも、なんらかのふくみのある言葉であったことは確かだ。
(それも流暢な日本語で。それを、アジアの人間である自分が聴いている…)
そして、冒頭の吉田秀和の言葉や、その裏返しであろう自己顕示欲、権力欲、過剰なまでの解釈、演技といったマゼールのあり様の一端に、そうしたある種の齟齬が潜んでいるのでないかと、僕は感じたりもした。
いずれにしても、最晩年のマゼールの演奏に接することができなかったのは、返す返すも残念でならない。
なお、吉田秀和は先程の文章をこう続けている。
>マゼールの<音楽>も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。
しかし、あすこには<一人の人間>がいるのである。
あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での<技術としての音楽>は、もう十歳かそこらで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の<音楽>があるのである。
それが好きか嫌いか。
それはまた別の話だ<
深く、深く、深く、深く黙祷。
2014年07月14日
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