2014年05月04日

猛き流星 vol.3『贋作 罪と罰』

☆猛き流星 vol.03『贋作 罪と罰』

 脚本:野田秀樹
 原作:ドストエフスキー
 演出:酒井信古
(2014年5月3日14時開演の回/京都大学西部講堂)


 今は亡き如月小春は、野田秀樹の『走れメルス』について、
>「天皇制」も「満州大陸」も「病んだ日本」も出てこない。
 メッセージというものがつかめない。けれど見終わって泣けた。
 自分が生きていることが切なくなった。言葉を超えて伝わってくるものがあった。
 それはおそらく同世代感覚としかいいようのないものだったと思う<
と記した。
 時が流れ、野田秀樹は積極的に「天皇制」を騙る、ではない語るようになった。
 それを野田秀樹の天向、ではない転向と見る向きもないではないが、僕にはそれは、彼の身体と言語のアクロバティックな優技で有義な遊戯の中で疾走し失踪していた潜在的なモティーフの顕在化であるように感じられる。
 言い換えれば、それは同「世代」性から同「時代」性への収斂というか。
 で、『贋作 罪と罰』は、夢の遊眠社解散以降の野田秀樹の変化変容のとば口の時期に書かれた作品の一つだが、NODA・MAPでの初演から約20年、再演からも約10年が経ってなお、強いアクチュアリティを有しているはずだ。
(なあんて、天才の猿真似はあかんね。ちっとも面白くないや)

 今回の公演で演出の酒井信古は、何重底にもなった意匠を押さえつつ、作品の肝となる部分を劇的に、なおかつ演劇的に描き上げようと努めていたのではないか。
 京大西部講堂の間尺もよく活かされており、とても見栄えのする舞台に仕上がっていた。

 ただ一方で、舞台上の激しい動きとともに、テキストの勘所というか、要所急所、仕掛けが必要以上に流されてしまっているように感じられたことも事実だ。
 しかも、にもかかわらず、例えばモーツァルトの作品がベートーヴェンの作品を演奏するかのように演奏されたような重たさを感じたことも否めない。
(余談だけど、『贋作 罪と罰』を観ると、どうしても、つかこうへいの『幕末純情伝』を思い出し、さらに野田さん自身の『怪盗乱魔』を思い出してしまう)

 様々な事情もあってだろう、ライヴ特有の傷がまま見受けられたが、演者陣は作品の世界観と酒井君の演出を汲み取る努力を重ねていた。
 主人公の三条英を演じた柳沢友里亜や、高瀬川すてらをはじめ、小西啓介、柳原良平(トリックスター的な部分でも持ち味を発揮していたけれど、実は後半のほうが柳原君の特性により近いものがあるのでは)、富永琴美(昨年の学生演劇祭で、彼女は客演でもその真価を発揮すると思っていたが、やはりその通りだった)勝二繁、高山涼、土谷凌太、鈴木翠、小高知子、黒須和輝、野口祐史と、なべて熱演。
(その存在自体にはいろいろ感じるところもあるのだけれど、山中麻里絵は演出の趣向によく沿っていたとも思う)

 いずれにしても、全ての公演参加者の健闘に大きな拍手を贈りたい。
posted by figarok492na at 02:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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