2013年12月21日

まるでテキストでもみているような上演 ふつうユニット『旅行者感覚の欠落』

☆ふつうユニット プロトコルに関する考察『旅行者感覚の欠落』

 作:合田団地(努力クラブ/2012年)
演出・廣瀬信輔
(2013年12月20日19時開演/アトリエ劇研)

 *劇団からのご招待


>私はかつて(指揮者のシャルル・)ミュンシュがボストン交響楽団をひきいて東京に来た時、『エロイカ』交響曲(ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」)をきいて、各パートが実に鮮明にきこえてきて、まるでスコアでもみているような印象を与えられ、びっくりもし、やや不満にも思ったものである<
(吉田秀和『世界の指揮者』<ちくま文庫>、ジュリーニの章より)


 アクターズラボの公演クラスを皮切りに、着実な演劇活動を続けてきた廣瀬信輔が自らの主宰するユニット、ふつうユニットで、合田団地君の『旅行者感覚の欠落』(努力クラブ。2012年12月8日、元・立誠小学校音楽室で観劇)をとり上げたのだけれど、吉田秀和のひそみに倣うとすれば、「まるでテキストでもみているような」上演ということになるだろうか。

 日曜日まで公演が続いていることもあって、あえて詳細は省くが、「人見せ」という事象とそれに関わる三人の登場人物を主軸に物語は進んでいくのだが、廣瀬君理知的なテキストの把握と丹念な舞台造形で、作品の構造文脈が手に取るようにわかりやすく再現されていた。
 と、言うより、もっとあけすけに言えば、(廣瀬君にはそんな気は毛頭ないだろうけれど)合田君の履いているパンツを容赦なくずり下ろすというか、合田君自らが演出することで巧みにはぐらかされていた、自己韜晦、テキストの要所急所長所弱点、さらに言うならば合田君の散文家性があからさまに示されていたように、僕には思われた。
 また、アクターズラボの公演クラスでの田中遊さんや柳沼昭徳さんの下での経験が、演者陣の動かし方や場面の処理に活かされていたことも確かだし、演者陣との創作過程が親密で充実したものであっただろうことも想像に難くない。

 ただ、そうしたテキストの把握等々が、かえって合田君の作品演出の持つ悪意、暴力性、不穏さ、猥雑さ(表面的なエロティシズムでは、廣瀬君のほうも負けてはいないし、それがまた批評的な行為になっているような気もするが)、リリカルさを矯めて減じさせる結果となり、廣瀬君が意図した以上に、「心に弱さ怪しさは抱えつつも、根はまじめでいい人たちが、一所懸命に変なことをやっています」といった感じになってしまっていたことも事実だ。
(一つには、初日ゆえの演者陣の緊張からくる傷や粗さもあるわけで、回を重ねるごとに笑いの仕掛けがよりしっかりはまっていくとも思う)

 もちろん、アフタートーク等での話からも、そうした諸々を廣瀬君が折込み済みであることは承知しているし、かつてのふつうユニットでの自作『スペーストラベラーズ』(2011年5月7日、壱坪シアターで観劇)同様、自分が面白いと思うこと、自分がやりたいと思うことをやるという廣瀬君の姿勢には共感を覚えるのだが、やはり一方で、自分の演出上の意図をお客さんにより明確な形で伝えるということ、自分とお客さんとの志向嗜好の違いや演者とお客さんとの距離をどうとっていくかということは、廣瀬君の今後の大きな課題になってくるものと僕は考える。
 そして、今回の『旅行者感覚の欠落』の成果反省点を踏まえた上で、より廣瀬君の特性に合ったテキストでの演出上演に臨んでいってもらえればと心から願う。

 演者陣では、主軸となる田中次郎、田中浩之、永榮紘実が、自らの特性を示しつつ、モノローグなどで廣瀬君自身の演技が見える(声が聴こえる)かのような感情表現を披歴していた。
(その分、テキストと自らとの齟齬や演出と自らとの齟齬も表われていたりもしたが)
 ほかに、稲葉俊、太田了輔、九鬼そねみ、佐々木峻一、澤雅典、三木万侑加、宗岡茉侑、山野博生の面々も、個々の技術面精神面での長短課題は見えつつも、廣瀬君の意図に沿う努力を重ねていた。
 廣瀬君と同じく、今回の経験を活かして、次の公演に挑んでいって欲しい。

 いずれにしても、廣瀬君や演者陣の皆さんの今後のさらなる活躍と研鑚に強く期待したい。
posted by figarok492na at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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