2013年11月09日

泣かないメロドラマ 楠企画『ラ・ボエーム』

☆京都造形芸術大学舞台芸術学科 2013年度卒業制作公演
 楠企画『ラ・ボエーム』

 企画・演出・上演台本:楠毅一朗
(2013年11月9日13時開演/京都芸術劇場studio21)


 「レジーテアター」って言うんだっけ。
 特にドイツ語圏を中心にして、1990年代以降、オペラの演出は大きく様変わりをした。
 一つには、経済的諸状況のあおりを受けて美術制作費抑制のため抽象的な舞台が必要とされたという物理的な裏事情もあるのだけれど、そこに「現代におけるオペラ上演の意義とはなんぞや?」といったアクチュアリティの問題も加わって、演劇畑出身の演出家による舞台設定を別の時代に置き換えたり、ストーリー展開を大きく読み替えたりする非常に斬新で刺激的な演出がオペラ上演の潮流となっていったのである。
(もちろん、見かけ倒しの演出も少なくなかったが)
 で、中森明菜、じゃないな井上陽水の如く「私は泣いたことがない」とまでは断言しないけれど、小学生の頃、先代の博多淡海の舞台の実況中継をテレビで観て、そのあまりのおかかなしさに思わず涙を流してしまったのも昔の話、いつの間にやらドライハートのドライアイに成長した人間にとって、1993年〜94年のヨーロッパ滞在時に接したそんな「レジーテアター」のはしりは、すんなりすとんと腑に落ちるというか、けっこうしっくりとくるものだった。
 それでも、20年近く海外に旅することもなくこの国の中で暮らしていると、よくも悪くもウェットな環境になじんでくるのだろうか、昨夜youtubeにアップされたプッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』の終景を観聴きしていると、突然涙がこぼれてきてびっくりした。
 何しろ、その録画は演奏会形式(全く舞台美術はなく、歌手も衣裳を着けない)だった上に、結核で死ぬミミ役のソプラノ歌手は昔のプリマドンナ風の立派な体格というのだから、普通なら「えへへこれで結核、おはは病気が違うでしょ」と笑ってもおかしくないところにもかかわらず、これがまあ不思議なこと。
 ミミの澄んだ歌声をから何から聴いていると、思わず涙がこぼれてくるのである。
 いやあ、プッチーニの「メロドラマ」の造り手としての天才ぶりには、改めて感心感嘆したなあ。
(そんなあり様、アンリ・ミュルジュールの原作との乖離を厭うて、アリ・カウリスマキ監督は『ラヴィ・ド・ボエーム』を撮影したんだけどね)

 京都造形芸術大学舞台芸術学科の2013年の卒業制作公演の一つ、楠企画の『ラ・ボエーム』(演劇公演)は、まさしく「レジーテアター」の系譜。
 一言で評するならば、「泣か(け)ないメロドラマ」、とでもなるか。
 むろんこの場合のメロドラマは、一般的なそれではなく、音楽を背景にして台詞を朗唱していくという語源の意味に近いものだけれど。
 プッチーニ作曲のオペラ『ラ・ボエーム』を構成し直し、台詞も七五調に改め、そこに現代演劇の様々な手法を詰め込んで、異端の王道とでも呼ぶべき作品に仕上げられていた。
 それこそイタリア・オペラのメッカ、ミラノ・スカラ座では大ブーイング間違いなしだろう。
(ちなみに、イタリアではこの手の「レジーテアター」は好まれず、オーソドックスな演出が未だに主流だ)
 オペラの要所を押さえてよく今様に造り変えているなと思ったり、原作の中から自分自身の思考志向真情信条とつながるものを巧く抽出しているなと思ったりした反面、正直表現としても表出としても粗さや拙さを感じたことも事実だが、今後の諸々の課題が明確になったということも含めて、卒業制作公演に相応しい作品だったと、僕は思う。
(一つ付け加えるならば、再構成してあるもののオペラの原テキストが基軸にある分、『ラ・ボエーム』そのものを詳しく知らない人には、作品演出の意図や肝が伝わりにくいきらいがあるかもしれない)

 吉田穂、中井優雅、榎本阿礼、鶴坂奈央、千代花奈、坂根隆介(意表をついたキャスティング!)の演者陣は、初日ということもあっての傷だけではなく、より根本的なテキストとの齟齬を感じさせたりもしたが、楠君の演出に沿う努力を重ねていたとも思う。
 その健闘に拍手を贈りたい。

 いずれにしても、楠君をはじめ、全ての参加者出演者の今後のさらなる研鑚と活躍を心より祈願したい。
posted by figarok492na at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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