2013年09月21日

参考 下鴨車窓『煙の塔』劇評(七ツ寺通信掲載)

 C.T.T. vol.106で上演された『断章 煙の塔』(田辺剛作・演出)の参考として、名古屋の七ツ寺共同スタジオ発行の七ツ寺通信に掲載された『煙の塔』(初演時)の劇評をアップします。


☆劇評 下鴨車窓「煙の塔」

 一言で言えば、意欲作ということになるだろうか。
 下鴨車窓にとって十回目の公演となる『煙の塔』は、表現者田辺剛の今がよく表われた作品となっていたように思う。

 山の奥に塔が立つある村で、村長の姪と青年との婚礼が執り行われようとしている。
そんな折も折、塔の辺りから謎めいた音が聞こえ始める。

 という幕開けも印象的な『煙の塔』は、寓話的な手法によって現在のアトモスフェアを映し取ろうとする、田辺さんの創作姿勢が明確に示された作品である。
 中でも、超然と聳え立ち、代々村長の一族によって護られ続けてきた謎の塔は、我々が直面している諸問題の象徴であるとともに、それを支え続けてきた社会的土壌、社会的心性の象徴であると言っても過言ではないだろう。
 ここで重要なことは、田辺さんが多様な解釈と相対的な価値判断を、観る側に委ねようとしていることだ。
 劇中語られる、「三角(三つの点)が世界の安定を保っている」という趣旨の言葉なども、そうした田辺さんの志向をよく伝えているのではないか。
 この多面性こそ、『煙の塔』とサタイア(風刺)とを分ける大きな分岐点となっているとも、僕は考える。

 加えて、小さな共同体における悪意の発生や、抑制されたエロティシズムといった、これまでの一連の作品と通底するモティーフが、チェーホフら先達たちの作品や様々な演劇的技法を咀嚼吸収する形で描き込まれていた点も忘れてはなるまい。
 特に指摘しておかなければならないのが、田辺さんの師である松田正隆との関係だ。
 田辺さんが演出助手として参加した、マレビトの会の『HIROSHIMA―HAPCHEON 二つの都市をめぐる展覧会』(松田正隆演出)での経験が、劇場全体を演劇空間に変えて、同時多発的に演者が演技を行うという、いわゆる展覧会形式を用いた前回公演の『小町風伝』(あいにく未見)に結実したわけだけれど、今回はその手法を一般的な舞台の上にスライドさせることで、時系列の省略や登場人物間の心理的な距離を具体的な像として映し出すことに成功していた。

 一方で、上演時間の制約もあってだろうが、十一名という登場人物の存在感に密度の薄さ、書き込まれるべきことが書き詰められていないもどかしさを覚えたことも、残念ながら否定できない。
 また、これは田辺作品の魅力でもあるのだが、本来叙事詩として綴り終えられるべきものが、結局叙情的に収斂されてしまっているような感じがしたことも事実である。
(その意味で、村長の姪を演じた飯坂美鶴妃の幕切れでのドライなリリシズムと粘らない点描的なエロキューションは、『煙の塔』を陳腐なカタルシスから救い出していたように思う)

 さらに踏み込んで言うならば、下鴨車窓における田辺さんは、松田さんの存在を意識し過ぎているように感じられて、僕には仕方がないのである。
 田辺さんが松田さんを超えていこうとするのであれば、『煙の塔』でもその一端が示された、優れたユーモア感覚(松田さんの作品にはそれが乏しい。グロテスクですらある諧謔性には魅かれるものの)を、演出の面で一層重視していくことが必要なのではないだろうか。
 現実を直視してなお時事諷刺に偏らない寓話性、過度に陥らない叙情性、奇抜さに恃まない試行性、笑いのツボを押さえて外さない喜劇性。
 田辺さんは、その全てがバランスよく混在した、精緻で巧妙な作品を造り出し得るに足る高い才能の持ち主であると、僕は信じる。
 この国の今に相応しい喜悲劇の傑作の誕生を、強く心待ちにしたい。

 最後に、高杉征司、岩田由紀、藤本隆志ら好演の演者陣と、光と影を巧みに利用して作品の世界観を汲み取って余すところなかった魚森理恵の照明と川上明子の舞台美術に、大きな拍手を贈りたい。
posted by figarok492na at 03:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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