2013年07月01日

努力クラブ6『家』

☆努力クラブ6『家』

 作・演出:合田団地
(2013年6月30日19時開演の回/アトリエ劇研)


 あれはもう何年前のことになるだろう。
 親しくしていた女性から、「中瀬さんは強いですね」とぽつりと言われたことがある。
 「いや、僕はびびりやし、死ぬのは怖くてたまらないし、へたれやし、すぐにかっとなるし」とすぐさま応えたが、彼女は「そんなことじゃないくて。中瀬さんはやっぱり強いです」とさらに続けた。
 きっと彼女は、本当は僕が強いんじゃなくて、冷たいと口にしたかったのではないだろうか。
 努力クラブにとって6回目の本公演となる『家』を観ながら、ついそんなことを思い出してしまった。


 演劇的趣向はもちろんのこと、終演後ある人が話していたように映像作品との親近性も強く感じた『家』だけれど、僕自身がこの作品を観て第一に感じたことは、文學界や群像に掲載されるような純文学の小説、それも「私小説」だなあということだった。
 と、言っても何から何まで「ぼく」まみれ、幕開きから幕切れまで自我の垂れ流しなんてことは毛頭ない。
(だいたい、第三者が介在するお芝居でそんなことまずもって無理である)

 それどころか、時折合田団地本人のツイッターのツイートを想起させるような、本音と韜晦きわきわあたりの言葉を織り込みつつも、佐々木峻一演じる主人公(合田君の本質と大きな齟齬のある彼にこの役を任せたことは、物語を客観化させるという意味でも正解だったと思う。佐々木君にとって腑に落ちる役柄だったかどうかは置くとして)と彼を取り巻く登場人物たちを通して、より普遍的な袋小路に入り込んだ人間の救いようのないあり様が、おかかなしい笑いを伴いながらじぐじぐぐじぐじと描かれていく。
 正直、合田君が意図した以上の冗長さを感じた場面もなくはなかったが、それもまた作品世界の持ついーっとなるような雰囲気の醸成に貢献していたことは否めまい。
 また、ミニマリズムやマジックリアリズムの応用等、作品の結構構成が興味深かったことも確かである。

 だが、それより何より、そのような意匠がこらされているからこそなおのこと、創作活動、表現活動というものが合田団地という人間にとって欠けてはならないもの、生きることの大きな支えにもなっているのだと改めて強く感じ、僕は深く共感を覚えた。

 けれど一方で、この『家』の登場人物間の関係性の底、作品全体の底にある優しさ、甘さに対し、違和感を持ったこともまた事実だ。
 ただし、その優しさ、甘さは、単なる合田君の自分自身への甘さ、自己憐憫とは異なる。
 映画の『アマデウス』のラストで、サリエリが癲狂院の患者たちに微笑みかけるような感情、といえばちょっと違うかな。
 ならば、「しゃむない人間はしゃむないけど…」の「けど…」と言い換えてもよい。
 そして、僕はその「けど…」という曰く言い難い感情に対して、あまり共感を持ちえないのである。
 そのことこそが、いっとう最初に記したことと大きく関わってくるのだとも思う。


 先述した佐々木君をはじめ、九鬼そねみ(今回は少し演技を意識し過ぎたか)、無農薬亭農薬、猿そのものの努力クラブの面々と、キタノ万里(彼女の役回りもまた、この作品の「私小説」性を高めていた)、新谷大輝、川北唯(誉め言葉として、彼女にはもっと「底意地の悪い」役を演じて欲しい)、木下ノコシ、長坂ひかる、飯坂美鶴妃(マジックリアリズムならぬマジックマッシュルーム的な演技を披歴)の客演陣は、各々の特性魅力をよく発揮していたが、合田君が本来描こうとしたものと実際の演技との間に大きな齟齬を感じてしまったことも、残念ながら否定できない。
 そうした齟齬を如何にして埋めていくか。
 合田君本人の努力ももちろん必要だろうけれど、他の面々の努力も当然必要とされているのではないか。

 合田君の表現の力点がどこに置かれていくかということも含めて、努力クラブの今後の活動に大きく期待したい。
 次回の公演が本当に愉しみである。
posted by figarok492na at 03:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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