☆ドビュッシー:管弦楽曲集
指揮:ダニエレ・ガッティ
管弦楽:フランス国立管弦楽団
<SONY/BMG>88697974002
許光俊が『最高に贅沢なクラシック』<講談社現代新書>で説く「贅沢」にはほど遠いものの、20代半ばより少し前、1993年の秋口から翌年の晩冬に至る約半年間のケルン・ヨーロッパ滞在は、今さらながら僕にとって「最高に贅沢なクラシック」体験だったとつくづく思う。
例えば、1993年11月5日から7日と、レナード・スラトキン指揮セントルイス交響楽団、ガリ・ベルティーニ指揮ケルンWDR交響楽団、アルミン・ジョルダン指揮スイス・ロマンド管弦楽団のコンサートをケルン・フィルハーモニーで三夜立て続けに聴いたことなど、一つ一つのコンサートの出来はひとまず置くとしても、やはり自分にとってとても贅沢な記憶である。
機能性は優れているものの、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ルドルフ・ブッフビンダーの独奏)にしろ、ストラヴィンスキーの『春の祭典』にしろCD録音以上に陰影の乏しさが気になって、ルロイ・アンダーソンのアンコールだけがやけにしっくりときたセントルイス響のコンサートについてはいずれ記すこともあるかもしれないから詳述しないが、残るWDR響とスイス・ロマンド管の二つは、今もって忘れられない印象に強く残るコンサートとなっている。
一つには、当時の首席指揮者ハンス・フォンクとどちらかといえば緩い演奏を繰り返していたWDR響が、前任のシェフ・ベルティーニの下、非常に統制のとれた音楽を造り出していたことに感心したこともあれば、スイス・ロマンド管はスイス・ロマンド管で、前半のプログラム、バルトークのピアノ協奏曲第3番でのマルタ・アルゲリッチの胸のすくような「共演」に感激したことも大きかったのだけれど。
(マルタ・アルゲリッチは我がままだからなあ、なんて言葉を自称音楽通に吹聴されたこともなくはなかったが、この夜の愉しそうにオーケストラと「共演」している彼女の姿、さらには休憩後客席で愉しそうにオーケストラを聴いている彼女の姿を観れば、そんな言葉がどうにも怪しく思えてしまったものだ。少なくとも、我がままは我がままでも、あの晩の彼女は、『上からマルタ』ならぬ『上からマリコ』的な我がままだったんじゃないだろうか、きっと)
加えて、これは偶然なのかどうなのか、いずれのオーケストラも、ドビュッシーの交響詩『海』とラヴェルの『ラ・ヴァルス』をプログラムに組み込んでいたのだけれど、指揮者の解釈ばかりか、オーケストラの持つ音色の違いをまざまざと知らされる想いがして、あれには本当にびっくりした。
そういえば、あなたWDR響の細かいところまで明快に見通せるようなクリアな演奏に、こなたスイス・ロマンド管のほわんほわんほわんほわんと音がまるっこく包み込むように響く演奏と、同じ作品(ちなみにほぼ同じ座席)でも、こうも違って聴こえるのかと驚いていると、たまたま隣に座っていたフランス人が演奏終了後に、「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」と口にしてにやりとしたんだったっけ。
(WDR響の場合、ドビュッシーとラヴェルは前半のプログラムで、メインはチャイコフスキーの交響曲第5番。『海』は、カプリッチョ・レーベルからCDがリリースされていた)
ダニエレ・ガッティがフランス国立管弦楽団を指揮したドビュッシーの管弦楽曲集(『海』、牧神の午後への前奏曲、管弦楽のための『映像』のカップリング)を聴きながら、ついついそんなことを思い出してしまった。
「フランスのオーケストラ以上にフランスっぽいね」とは、あまりに感覚的で、ある種の偏見が入り混じったと言葉と思えなくもないとはいえ、このCDのドビュッシーを聴くに、確かにそういう風に彼が口にしてみたくなった気持ちも想像できなくはない。
録音のかげんもあってだろうが、ガッティとフランス国立管弦楽団が造り出すドビュッシーは、細部までよく目配りが届いている上に、オペラでならしたガッティらしく歌謡性や劇場感覚にあふれているというか、音楽の肝をよく押さえた非常にメリハリのきいた音楽に仕上がっている。
と、言っても、ベルティーニのように、がっちりきっちりと固めきってしまうのではなく、多少粗さは残っても、音楽の自然な流れ、演奏者の感興というものをより活かしているようにも感じられる。
そうした意味もあって、『海』の終曲や、『映像』など、音のダイナミズムや劇性に富んだ作品が中でも優れた演奏になっているように思った。
いずれにしても、単なる雰囲気としてではなく、一個の音楽作品、オーケストラ作品としてドビュッシーの作品を愉しみたい方には、大いにお薦めしたい一枚だ。
そうそう、ベルティーニ&WDR響、ジョルダン&スイス・ロマンド管の驚きよ再びとばかり、ガッティのCDのあとに、セルジュ・チェリビダッケがシュトゥットガルト放送交響楽団とミュンヘン・フィルを指揮した二種類の『海』の録音<前者ドイツ・グラモフォン/後者EMI>を続けて聴いてみたのだが、これは失敗だった。
なぜなら、演奏の違い、解釈の違いは頭でよく理解できるものの、あの身に沁みるような感覚感慨は、全く得られなかったからである。
まあ、生とCD(音の缶詰)、当たり前っちゃ当たり前のことではあろうが。
それにしても、20代半ば前に、連日連夜、それも生活の一部としてコンサートやオペラに足しげく通ったあの半年間は、僕にとって本当に贅沢な体験経験であり、記憶であるのだが、ことクラシック音楽を生で聴くという意味では、僕の人生のピークだったことも明らかな事実だろう。
それは、とても贅沢で幸福なことではあったけれど、逆にとてつもなく不幸なことであったのかもしれないと、今の僕は思わないでもない。
2012年07月07日
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