監督・脚本:新藤兼人
音楽:林光
(2012年6月21日、京都文化博物館フィルムシアター)
シーシュポスの神話は神罰、神に与えられた責め苦であるから、それをそのまま人間の創作活動、表現活動にあてはめるのもどうかと思うが、完璧などあり得ないとわかっていながら、次もまた次もと自らの創作活動、表現活動を繰り返すということは、やはり地の底に落ちてしまった巨岩を再び頂まで押し上げて行こうとするシーシュポスとつながるものがあるような気がする。
(って、カミュの受け売りじゃないよ)
そしてそれはまた、ある種の業にとり憑かれた行為と呼べなくもない。
先日亡くなった新藤兼人ほど、そうした創作活動、表現活動の繰り返しの責め苦(物心両面での)を厭わず、自らの表現欲求という業に一生を費やした(というイメージに相応しい)人物もそうそういまい。
そんな新藤兼人という表現者のあれやこれやが凝縮され、全面的に押し出された作品こそ、近代映画協会崩壊の危機の中で撮影されたこの『裸の島』ではないだろうか。
瀬戸内海の孤島、殿山泰司と乙羽信子演じる夫妻(玄人の俳優はこの盟友二人だけ)と男の子二人の自給自足と呼ぶにはありにも厳しい日々が、ほとんど台詞を省略し、なおかつドキュメンタリー的な手法を効果的に取り入れながら、丹念に描かれていく。
毎日毎日、別の大きな島へと小舟に乗って水汲みに行く夫妻。
切り立った頂の狭い場所に無理をして開いた畑まで天秤棒を担いで水の入った桶を運ぶ夫妻。
乾燥し切った畑に水をやる夫妻。
まさしくシーシュポスの神話を思い起こさざるをえない厳しい毎日の連続だ。
むろん、そんな生活の中にも喜びや息抜きはないでもないのだけれど、それすらこの家族の貧しさを浮き彫りにもしてしまう。
いずれにしても、この夫妻のようにこうやって孤島で生きて行くことそのものばかりでなく、生きることそれ自体について、どうしても思いが到る、ずしりと心に届く作品だ。
個人的には、さらにドライな感触が好みだが、終盤のウェットな表現も、新藤兼人らしさの強い表われと言えなくもない。
殿山泰司と乙羽信子の二人も熱演。
特にラスト近く、妻乙羽信子の激しい感情の爆発を受ける夫殿山泰司のなんとも言えない表情がとても印象に残った。
また、新藤兼人と同じく今年亡くなった林光のリリカルで感傷的な音楽も、作品の世界観によく合っていると思う。
なお、この『裸の島』の撮影現場に関しては、新藤兼人、殿山泰司がそれぞれの立場から文章を遺しているので、ご興味ご関心がおありの方はぜひご一読のほど。
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