監督:吉村公三郎
脚本:新藤兼人
(2012年6月5日、京都文化博物館フィルムシアター)
のちのち近代映画協会を設立することとなる、新藤兼人の脚本、吉村公三郎の監督による『わが生涯のかがやける日』を観ながら、やっぱり映画は時代を映す鏡だなあ、とつくづく感じ入った。
昭和20年8月14日、義憤にかられた陸軍将校沼崎(森雅之。身を持ち崩してからあとの彼がかっこいい)は、ポツダム宣言受諾を是とする重臣戸田(井上正夫)を暗殺する。
それから数年が経ち、モルヒネ中毒者となった沼崎は、かつて般若のマサと呼ばれた賭博師で、今やダンスホールと新聞社(愛國新聞!)を経営する傍ら、隠匿物資摘発を阻止するギャング団の頭目でもある佐川(滝沢修。濃いいメイク)の手先となっている。
そうした折も折、偶然戸田の娘節子(山口淑子。李香蘭)が佐川のダンスホールで働き始める。
戸田を殺した負い目と節子への愛情もあって、沼崎は佐川の手から節子を守ろうとするが…。
といった具合に話は進んでいくのだけれど、かつて罪を犯した者が過ちを認め、悔い改め謝罪することによって自らが傷つけた者と和解する、また悪も滅びる、という展開は、まさしくGHQの占領下でアメリカ型のデモクラシーが推し進められていた当時の日本の状況を色濃く反映したものと言えるだろう。
その分、ちょっとご都合主義的というか、単純明快に過ぎるなと思わないでもない。
ただ、これには、フィルムシアターのプログラムにも触れられているように、本来占領下の政治の腐敗や佐川のGHQとの癒着等を描く予定が、GHQ側の検閲のため大幅にカットされてしまったという裏の事情も大きいのだが。
いや、そうした点もまた、明らかに時代の反映と言えなくもないか。
決闘という趣向やピストルの効果的な使用、肉弾戦に当時では激しいだろうラブシーンと、ハリウッド調の作劇で、サングラスに映る山口淑子の歪んだ顔など、吉村公三郎らしい映像的な仕掛けもふんだんに盛り込まれているが、それが今となっては少々わずらわしく感じられることも事実だ。
役者陣は、上述した人たちに加え、清水将夫(節子の兄で、戦時中思想弾圧を繰り返した検事)、加藤嘉(かつて陸軍の高級軍人で、佐川の右腕)、三井弘次、殿山泰司(まだ髪の毛がある)、村田知栄子といった面々が作品の世界観によく沿った脂っこくアクの強い演技を披歴している。
ただ個人的には、佐川たちの悪行を追及する新聞記者で沼崎の学友高倉を演じた宇野重吉の淡々として抑制された演技が、かえって強く印象に残った。
いずれにしても、時代の一端を識るという意味で一見の価値は充分ある作品ではないだろうか。
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