2011年11月21日

てんこもり堂 第4回本公演『壊れた風景』

☆てんこもり堂 第4回本公演『壊れた風景』

 原作:別役実
 演出:藤本隆志
(2011年11月20日、アトリエ劇研)


 先日、如月小春の『俳優の領分』<新宿書房>を読み終えた。
 『俳優の領分』は、昭和の新劇を代表する名優中村伸郎の演劇人生について、彼へのインタビューを通しつつ、岸田國士や小津安二郎、三島由紀夫、イヨネスコ、そして別役実との関係を中心に読み解いたものだ。
 如月さんの考察ともども、非常に刺激的で、学ぶところ大な一冊だったが、その中に中村さんが男1を演じた別役実の『壊れた風景』のエピソードが詳しく語られていた。
 別役実の一見わかりやすそうで、その実とらえどころのない台詞に、中村伸郎や岸田今日子が苦心惨憺したというのがそれである。
 その後、中村さんが如何にして別役実の劇世界を自らのものとし、逆に中村さんの存在が如何にして別役実に大きな影響を与えたかが述べられていくのだけれど、以前そのテキストに目を通し、さらに何度か音読を試した人間としては、『壊れた風景』と対峙して苦しむ中村さんや岸田さんの姿を想像することは、全く難いことではなかった。
 そう、『壊れた風景』に限らず、別役実が紡ぐ台詞=言葉は、表面的断片的には少しも難しいものではない。
 けれど、それが登場人物間の会話の中で積み重ねられたとき、なんともつかみどころのない、曰く言い難いものへと姿を変える。
 いや、実はそうしたつかみどころなく曰く言い難いもの中から、これまたなんとも曰く言い難いおかかなしさや痛切さ、そして今現在に対する強い問題意識や危機感が表われてもくるのだろうが。
 そして、当然の如く、『壊れた風景』にもまた別役実の様々な想いや問題意識、危機感が強く秘められている。
 例えばそれは、壊れた蓄音機に、壊れた眼鏡に、意味を為さない地図に。

 ただ、そうした諸々を承知の上で藤本隆志は、より線がはっきりとして明確明瞭な形で『壊れた風景』を再現していたように思う。
 それは、喜劇的な要素、喜劇的な作品の動きを強く押し出した演出と言い換えることもできるだろう。
 そして、たぶん中村伸郎や岸田今日子が苦労したであろう、もんやりもちゃっとした、交わるようで交わらない、いーっとなるような会話の連続ののちに、どんと笑いを仕掛けるという狙いは、巧く効果を発揮していたのではないだろうか。
 別役作品の持つシニカルさ、薄気味の悪いおかしさには欠けるものの、たまたまそこに寄り集まった人々がいつの間にか他人の食べ物に手を出してわいわい和している姿の滑稽さには、やはり大いに面白さを感じずにはいられなかった。
 また、本来救いのない形ですとんと終わるべき作品に、登場人物たちが親しく交わり続けるという幻想的なシーンをあえて付け加えるなど、今回の演出が笑いとともに祈りや願いをこめたものであったことも指摘しておかなければなるまい。
(それは、今はたぶん夢や幻であることも暗に示されている。その意味でも、シューベルトの歌曲の使用は効果的だ)
 個人的には、藤本さんの意図に充分納得がいき、好感を抱いたが、テキストの中に、そうした解釈を拒む要素(毒のようなもの)がどうしても見え隠れしていたことも否めない。
 こうした部分をどう処理していくか、より強い表現で抑え込んでいくのか、それとも自らの世界観に一層噛み合う作品を選択するのか。
 今回の公演で、藤本さんの演出の方向性がはっきりと示され、なおかつ実際の舞台上で効果を発揮した分、それが今後の大きな課題になるのではないかと、僕は考える。

 難しいテキストに対し、演者陣は演出の意図によく沿って大健闘していたのではないか。
 各々の特性や魅力も巧く表わされていたように感じた。
 公演回数があと少しあれば、さらに肌理の細かいアンサンブルができたはずで、その点が非常に残念でならない。

 いずれにしても、次回のてんこもり堂がどのような作品を上演してくれるのか。
 今から心待ちにしたい。
posted by figarok492na at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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