2011年01月03日

門松は冥土の旅の一里塚…(CLACLA日記)

 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。
 とは、一休宗純の歌であるが、今日アトリエ劇研の新春恒例・劇研寄席で京都役者落語会の面々の落語を観聴きしながら、ふとその歌のことを僕は思い出した。
 と、言うのも、岡嶋秀昭さんの『死ぬなら今』(岡嶋さんがばらまいたお年玉袋を僕も手に入れた。岡嶋さん直筆のイラストと「大吉」の文字が妙に嬉しい)に始まり、水沼健さんの『宗論』、藤原大介さんの『不精の代参』、そして中入りを挟んだ二口大学さんの『死神』と、どうしても死というものについて思いを巡らさざるをえないような内容を含んだ噺がこれでもかという具合に続いていたからだ。
 もちろん、そこは京都小劇場の役者陣の中でもとびきりの個性派ぞろいゆえ、各々の特質や魅力を活かした高座に仕立て上げていたが。
 トリは、エディ・B・アッチャマンさんで『あくび指南』。
 さらりと軽く、しかし、きちんきちんと笑いを仕掛けていた点、流石だと思う。

 開演前、中入り中、終演後に、関係各氏と話しをしたりあいさつをしたりした。

 その後、企画関係の用件をいくつかすませ、20時頃に帰宅する。


 外出前、清沢洌の『暗黒日記』<評論社>と小林信彦の『日本橋バビロン』<文藝春秋>を読み進め、グレン・グールドが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「悲愴」〜第10番<SONY>とヘルマン・シェルヘン指揮ルガーノ・スイス・イタリア語放送管弦楽団が演奏したベートーヴェンの交響曲第4番&第5番<PLATZ>を聴く。
 シェルヘン指揮のベートーヴェンは、知る人ぞ知る1965年のライヴ録音。
 何者かに追われているかのようなやたけた感全開の演奏で、時折発せられるシェルヘンの雄叫びがますます効果を高めている。
 正直、あまり繰り返し聴きたいとは思わないが、クラシック音楽好きには一聴をお薦めしたいCDではある。


 夕飯後、『暗黒日記』を読み進め、『日本橋バビロン』を読了する。
 『日本橋バビロン』は、小林信彦の失われたものへの哀切の念と自らが受けた傷への深い怒りと憤りが、しかし淡々とした筆致で表わされた一冊だったように思う。
(第四部の「崩れる」が、この作品の肝なのではないか)

 リカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏したチャイコフスキーの交響曲第5番&『フランチェスカ・ダ・リミニ』<EMI>とダリウス・ミヨー指揮BBC交響楽団他が演奏したサティの『びっくり箱』(ミヨー編曲)、ミヨー自身のインディアナのための音楽、交響曲第10番、バレエ音楽『男とその欲望』<BBCクラシックス>を聴く。
 ムーティは劇的感覚と歌唱性に満ちた演奏。
 若干融通のきかなさが聴き受けられる交響曲より、『フランチェスコ・ダ・リミニ』のほうが、一層ムーティの柄に合っているのではないか。
 フィラデルフィア管も達者だ。
 一方、ミヨーは、1970年にBBCの放送用にスタジオ録音された音源をCD化したもの。
 演奏・作品ともに、とっちらかった感じが否めず、聴いていてどうにも落ち着かない。
 ミヨーらしいっちゃミヨーらしいのだけれど。


 2011年も、もう三日が過ぎた。
 一日一日を本当に大切にしていかなければ。


 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
posted by figarok492na at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | CLACLA日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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