2009年09月06日

1994年2月9日(欧州音楽日記16)

 ☆ショスタコーヴィチ:歌劇『鼻』公演

  指揮:デヴィッド・レヴィ
 管弦楽:ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
  会場:ケルン市立歌劇場


 オペラとは、恋心を抱いた男と女が、その悲劇的な展開においおいと声を張り上げる大げさな芝居だと思い込んでいる人間には、今日ケルン市立歌劇場で上演されたショスタコーヴィチの『鼻』は、驚きの対象でしかないだろう。
 ゴーゴリの原作による『鼻』*は1、一言で言えば、喜劇である。
 それも滑稽な。
 ある朝、男の鼻がとれ、いつの間にかその鼻が人格を持ち、鼻の本来の持ち主よりも尊拝されるようになる。
 その展開はあまりにあまりで、それこそ「荒唐無稽」と呼ぶほかない。
 が、しかし、この作品は単なる笑劇だろうか?
 当然、違う。
 個人の意志や才能、そして人格が無視され抑圧される、家柄や地位によって多くが左右される、帝政ロシアへのゴーゴリの痛烈な批判がそこにこめられていることを忘れるわけにはいかない。
 そして、ショスタコーヴィチが、このゴーゴリの作品をオペラ化したことにも注目せざるをえない。

 演出のハリー・クプファーは、その評判にたがわず、『鼻』という作品を明確な政治劇として描いた。
 それも、社会主義・ソビエト(ロシア社会)への諷刺としてだけでなく、私たち現在(ドイツ社会の現状を中心に)に対する強い批判として描き上げた。
 回転舞台の上で転げ回り、叫び、祈る人々は、ときにネオナチであり、失業者であり、「市民」であった。
 「個」が「個」として認められない社会へのアンチテーゼとしてこの『鼻』は取り上げられたのである。
(と、言っても、彼の演出を、諸手を挙げて賛美はし難いが)
 指揮は、いつの間にかデヴィッド・レヴィという人物に。
 アメリカ生まれだから、「コンロン系統」の人物か?
 威勢のよい指揮をしていた。
 オーケストラのほうは、時折ショスタコーヴィチの音楽についていけていないのでは? とも感じたが、全体的には悪くはない。
 音楽としては、交響曲との関連の深そうなマーチの弦の扱い方、それと合唱の部分に特に感心する。
 歌手は、主役という概念から言うと、鼻のとれた人物を演じたガードナーだろうが、警視総監役のモーグニー(本当に声を出すのが大変そう)をはじめ、ケルンのオペラの専属歌手総出演の感。これだけ歌い手がいるということに感じ入るし、また合唱の層も厚い。
 物語としては人間の「個」の疎外が扱われているが、音楽作品としては歌手陣からコーラス、オーケストラの一人一人にいたるまで、「個」の力量、そしてその「個」の集まりである全体の力量が問われる力作と言える。
 本当にご苦労様。
 なお、ドイツ語訳による上演だったが、違和感は持たず。


 昨晩テレビで、ウェールズ・ナショナル・オペラの『ペレアスとメリザンド』を観た。
 音質が悪いので、演奏を云々することはほとんどできないが、歌手陣の声質の良さと見栄えの良さ、演出の斬新さに感心した。
 ブーレーズの指揮によるオーケストラの演奏がよく聴こえず、非常に残念*2。




*1:この『鼻』をはじめ、『外套』や『狂人日記』、戯曲『検察官』といったゴーゴリの作品を、僕は高校時代に岩波文庫で読んでいた。

*2:今回の日記の余白に書かれている文章。この演奏はDVDが発売されている。
posted by figarok492na at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州音楽日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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