☆ブラームス:交響曲第2番
ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
1983年、デジタル録音
<EMI/DHM>CDC7 47871 2
今から15年以上昔、ちょうどヨーロッパに向かう半年ほど前、その頃はまだ出来たてだった名古屋の愛知県芸術劇場のコンサートホールで、ロリン・マゼール指揮バイエルン放送交響楽団の来日公演を聴く機会があった。
プログラムは、ブラームスの交響曲第1番と第2番の2曲だったが、前者のいわゆるオーソドックスな音楽づくりに対して、後者の音楽の進行のギクシャクとした部分をやけに強調したそれこそマゼールらしいやり口が、とても印象に残った。
むろん、とても印象に残っているからといって、何もそれに同調しているわけではない。
それどころか、いくらブラームスの音楽にそうしたギクシャクとした性質がひそんでいるからといって、無理からそれを目立たせる必要もあるまいに、といつもながらのマゼールの露悪趣味に内心うんざりしたほどだった。
ただ、ヨーロッパのケルンという街で生活し、それこそ「ヨーロッパ的」な演奏に日々触れる中で、大いに賛同はしないけれど、何ゆえマゼールがああした確信犯的な楽曲解釈に走りたがるのかという理由の一端を感じ取れたような気がしたことも事実である。
そして、マゼールという一人の音楽家の、若き日のアン・ファン・テリブルな行き方と、現在の偽悪家的なやり口とが一つの線でつながっていることにも疑いようはないと確信するにいたった。
今回取り上げる、ギュンター・ヴァントが手兵ハンブルク北ドイツ放送交響楽団を指揮して録音したブラームスの交響曲第2番は、そうしたマゼールの演奏の対極に位置するものと評することができる。
(本当は、コインの裏と表と評したい気持ちもあるのだけれど、ここではそこまで断定できない)
確かに、作品の構造、構成、性質に対する把握の細かさ、その徹底ぶりは共通するものがないとは言えないが、マゼールがデフォルメにデフォルメを重ねていく、言い換えると、作品の持つ齟齬を強調するのに反し、ヴァントのほうは、作品の持つバランス、均整の美しさに大きく重心を置いている。
だから、演奏の本質からすれば全く適当でない「自然な」という言葉を当てはめたくもなるのである。
(「自然な」という言葉が、どうして適当でないかはあえて記さない。それと、こうした言葉を使いたくなるのは、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団が、同じドイツのオーケストラでも、ベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団などと比べて、よりくすんだ音色を有しているからかもしれない)
いずれにしても、全体を一つの音のドラマとしてしっかりと造り上げたという意味でも、細部の美しさ、魅力を丁寧に描き分けたという意味でも、実によく出来た、そして聴き応えのある演奏だと僕は思う*注。
指揮者とオーケストラのつき具合、音楽の完成度という面では、後年のRCAレーベルへのライヴ録音に譲るものの、ギュンター・ヴァントという音楽家の本質を識るという点でも、大いにお薦めしたい一枚だ。
多少の不満は残るが、音楽そのものを愉しむという意味では、録音もまず問題はあるまい。
余談だけれど、冒頭のバイエルン放送交響楽団のコンサートでは、指定席のチケットを持っているにもかかわらず、
「バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様、バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様」
と、わけわからんちんな言葉を絶叫する係りの青年の言うがままに4列に並ばされて、粛々とホールへ入場させられるはめになった。
「You Know? You Know?(前回のCDレビューをご参照のほど)」と「バイエルンきょうそうほうそう楽団」とのあまりの違い!
(と、言って、僕は名古屋での出来事を全否定するつもりはない。けれど、「彼」と「我」とは大きく違う土壌にあること、そしてその中で「我」われは「彼」らのものに接している、という認識はやはり必要なのではないかと、僕は強く思うのだ)
*注
本当は、ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィルの演奏したブラームスの交響曲第2番(<EMI>CDC7 54059 2)と比較して少し詳しく記しておこうかと思ったのだが、サヴァリッシュのほうを耳にしてやめておくことにした。
だって、一方を誉めるために他方を貶めるなんて、やっぱり芸がないもの。
2009年04月18日
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