☆ブラームス:交響曲第4番、悲劇的序曲
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ロンドン・フィル
1989年、1990年、デジタル録音
<EMI>CDC7 54060 2
今からちょうど15年前のこと、ケルン滞在中の僕は、イギリスまで数日間足を伸ばしたことがあった。
当時ウォーリック大学に留学していた院生仲間の大塚陽子さん(現立命館大学政策科学部准教授)を訪ねることがその大きな目的だったのだけれど、他に、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラのマスネの『シェルバン』公演初日と、ロンドン・フィルの定期演奏会を僕はスケジュールに組み込んでもいた。
と、言っても、今ほどネットでささっとチケット予約ができる時代ではなかったから、いずれも当日券目当ての行き当たりばったりの計画だったが、二つの公演とも難なくチケットを手に入れることができた。
なぜなら、ロイヤル・オペラのほうはひとまず置くとして、ロンドン・フィルのほうは、予定されていたクラウス・テンシュテットが体調不良でキャンセルし、指揮者がロジャー・ノリントンに変更されていたからで、当日のチケットを下さいとロイヤル・フェスティヴァル・ホールの窓口に行ったとき、係りのおじさんから「You know? You Know?」と、そのことを何度も念押しされたほどだった。
僕自身は、あくまでもノリントン聴きたさの選択だったが(前年の秋、ケルンで聴いたヨーロッパ室内管弦楽団とのコンサートの印象が非常に鮮烈だったので)、ロンドンにおけるテンシュテットの絶大な人気に、こちらがどう見ても「東洋人」であるということも加味して考えれば、おじさんの反応もむべなるかなで、そのときも、そらそう念押ししたなるやろな、と内心大いに納得したものである。
で、ヴォルフガング・サヴァリッシュがロンドン・フィルを指揮したブラームスの交響曲第4番を聴きながら、ふとそんなことを思い出したのにはわけがあって、実は、ノリントンが指揮したコンサートのメインのプログラムもブラームスの交響曲第4番だったのだ。
むろん、サヴァリッシュとノリントンの演奏には4年間の開きがあるし、だいいち、二人の音楽の造り方、楽曲の解釈には、それこそ天と地ほどの開きがある。
ただ、それでも両者がはっきりと頭の中でつながったのは、単にオーケストラが同じロンドン・フィルだからということだけではなく、サヴァリッシュもまたテンシュテットの代役だったのではなかろうかと推測することができたからだ*注。
演奏自体は、よくも悪くもサヴァリッシュという指揮者の持つイメージにぴったりと添った内容になっていると思う。
作品の骨格はきちんと押さえられているし、歌うべきところもそれなり歌われているし、第1楽章や第4楽章の終わりの部分をはじめ、ドラマティックな表現にだって不足していない。
(それは、サヴァリッシュの「劇場感覚」の表れだとも言える)
加えて、ロンドン・フィルも機能性に優れたアンサンブルを披歴している。
レビューを書くまでに、10回以上このCDに接したが、聴けば聴くほど演奏のプラスの面が見えて(聴こえて)くる録音だと言い切ることができる。
だが、何かが足りない、ような気もするのだ。
ううん、なんと言ったらよいのか。
行き方でいうと、たぶんギュンター・ヴァントに近いものがあるのだろうが、彼ほど徹底しきれていないというか。
かと言って、テンシュテットのようなパトスは当然感じられない。
いいところまでいってるんだけれど、そこから先がというもどかしさが残るのである、この演奏には。
一つには、EMIの、それもアビーロード・スタジオでの録音ということに起因する音質の悪さ(それが言い過ぎなら、音質のデッドさ)が大きく影響していると言えないこともないが。
個人的には、カップリングの悲劇的序曲のほうが、サヴァリッシュの劇場感覚が冒頭よりたっぷりと発揮されていて、聴き応えがあるように思われる。
いずれにしても、本物の初心者、つまり初めてこの曲を聴くという人よりも、日本のプロのオーケストラによるこの曲の生の演奏(それも指揮者は、秋山和慶とか小泉和裕、円光寺雅彦、梅田俊明、小田野宏之、大友直人、十束尚宏、外山雄三といった人たち)に何度か触れたことのある人たちにお薦めしたい一枚だ。
*注
『レコード芸術』1998年3月号の、浅里公三によるクラウス・テンシュテットの追悼記事中に、
>(テンシュテットが)もし病魔に侵されなかったら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどの交響曲全集も完成できたろう<
という言葉がある。
やはり、サヴァリッシュによるロンドン・フィルとのブラームスの交響曲全集は、テンシュテットの代役だったようだ。
2009年04月17日
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