☆シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番、即興曲Op90−3、4
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
1985年、デジタル録音
<ERATO>ECD88181
皮か餡子か。
形式か中身か。
文芸音楽演劇その他諸々諸事万端、あらゆる表現行為というものを考える際に、しばしば問われるのが、表現者が上記のいずれに重きをなすかということである。
なあんて、それらしい言葉で始めてみたが、これ以上続けると、朝日新聞の斎藤美奈子の文芸時評の受け売りっぽくなりそうだからやめておく。
まあ、どっちも大事、要はバランスじゃん、というのが個人的な考えなんだけれど、言うは易く行うは難し、二兎を追って一兎も得ずの喩え通り、欲張り過ぎると、あっちもだめならこっちもだめという悲惨な結果に陥らないともかぎらない。
というか、真っ当な表現者ならば、そこら辺、事の軽重はありつつも、自分なりにきちんと折り合いをつけているような気がするのだが。
今回取り上げる、マリア・ジョアン・ピリスの弾いたシューベルトは、明らかに内実重視の演奏ということができるのではないか。
もちろん、だからと言って、作品の構成に対する意識が欠如しているだとか、ましてや技術的に大きく難があると言いたい訳ではない。
ただ、彼女の演奏を聴いていると、そうした皮の部分、外側の部分よりも、シューベルトの作品と対峙して自らの心がどう動いたのかを表現すること、自らの内面を表すことのほうに、よりピリスの関心があるように僕には感じられるのだ。
その分、ソナタのほうでは、表現にぶれが聴き受けられるような箇所があることも事実で、僕自身は、ピリスの意識とシューベルトの音楽がぴたりと添ったり逆に離れたりする様を面白いと思ったりもしたが、堅固なシューベルトを求めるむきにはあまりしっくりとこない演奏かもしれないなと思ったりもする。
その点、余白に収められた、二つの即興曲のほうが、よりピリスの特性、本質と合っているのではないだろうか。
それでも、自己の深淵と向き合うということをどこか自家薬籠中のものとしてしまった感すらある最近のピリスにはない清鮮さを噛み締めることができるという意味も含めて、僕はこのCDを繰り返し聴き続けると思う。
特に、夜更けにゆっくり聴きたい一枚だ。
2009年03月25日
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