☆リヒャルト・シュトラウス:ドン・ファン、ドン・キホーテ
フランツ・バルトロメイ(チェロ)
ハインリヒ・コル(ヴィオラ)
ライナー・キュッヒル(ヴァイオリン)
アンドレ・プレヴィン指揮
1990年、デジタル録音
<TELARC>CD-80262
我を忘れる。
と、いう言葉がある。
俺のものは俺のもの、他人のものも俺のもの、俺は俺様俺流イエイ、俺俺オーレオーレ俺イエイ! と、いつもかつも自分は自分、俺は俺と唯我独尊我が道を行く自同律の権化のような人間は、まさしく不快の極みで、落語の粗忽長屋のサゲよろしく、「死んでる俺は俺だけど、抱いてる俺は誰だろう」とたまにはあんたも自分自身を疑ってみなさいよと教え諭してみたくもなるけれど、それはそれ。
過ぎたるは及ばざるが如しの喩え通り、我を忘れることも度を過ぎると、これまたたいへん難儀なことになってしまう。
忘れた我を求めて、赤の他人に頼る、金に頼る、マリファナアヘンに頼る、はては神様や宇宙人、マルクス=レーニン主義に頼る。
もしくは我を忘れて、自分が自分でないもののように思い込む。
それでも、ラミパスラミパスルルルルルー、と鏡の前で呪文を唱えているうちはまだ可愛げもあるが、原始女は太陽だった私は卑弥呼よおほほほほ、だとか、我は征夷大将軍足利銀行なんめり、だとか、イエスウイキャンアイアムオボモ、だとか、あっそう朕はたらふく喰ってるぞ…。
やめておこう、我を忘れていた。
いずれにしても、我を忘れると自分ばかりか他人にも迷惑な話だ。
で、今回取り上げるCDは、我を忘れた二人の男に関する物語。
かたや我を忘れて女性遍歴を繰り返し、結果自滅してしまうドン・ファンと、こなた我を忘れて自分を偉大な騎士だと思い込み、騎行ならぬ奇行、ばかばっかを繰り返すドン・キホーテの、いずれも面白うてやがてかなしきなんとやら。
じゃない、リヒャルト・シュトラウスのドン・キホーテは少々勝手が違って、原作と同じく銀月の騎士が登場し、主人公が治ってしまうところがみそなんだけど、ここらあたりは山田由美子の『第三帝国のR・シュトラウス』<世界思想社>に詳しく記されているので、ぜひご一読のほどを。
(ちなみに、この著書は、これまでナチスの御用楽者とばかり思い込まれてきたリヒャルト・シュトラウスの抵抗者としての側面に強い光を当てていて、とても興味深い。リヒャルト・シュトラウスの愛好家を自認するならば、必読なんめり!)
さてと、演奏演奏。
ドン・ファンのほうは、ソフトでメロウなタッチの演奏で、いくぶんしまりのなさも感じない訳ではないが、その分ウィーン・フィルの音色の魅力やアンサンブルのあり様(よう)がよく伝わってくる仕上がりになっているとも思う。
てか、ミア・ファローやアンネ・ゾフィー・ムターといった女性たちを奪ってきた、というより、多分に彼女たちに圧されてきたとおぼしきアンドレ・プレヴィンという一人の人間の私小説的な演奏であり、そこがなんとも「おかかなしい」by色川武大。
(できれば、あのウッディ・アレンにもこの曲の指揮をしてもらいたいものだと思ったりなんかしちゃったりして)
一方、ドン・キホーテは、あざとさの感じられないナチュラルなタッチの演奏。
カラヤン流儀のこれでもかこれでもかという音楽づくりに慣れたむきには少々物足りなく感じられるかもしれないが、先述した『第三帝国のR・シュトラウス』でも指摘されている第二変奏の「羊の鳴き声」をはじめとした意地悪な仕掛けをふんだんに盛り込んだ作曲そのものに比して、さっぱりすっきり即物即物的な棒振りをよしとしたリヒャルト・シュトラウスなら、「これでいいんじゃないか」、と太鼓判ではなくとも、認印ぐらいは押すような気が、僕にはする。
それに、ここでもまたウィーン・フィルのアンサンブルは光っているし。
(そういえば、ドン・キホーテのソロはウィーン・フィルのメンバーが務めているんだった)
いずれにしても、ドン・ファンとドン・キホーテという二つの作品をCDで繰り返して聴くという意味ではまずもって問題のない演奏で、フルプライスでも大いにお薦めしたい一枚だ。
テラーク・レーベルだけあって、音質もおつりが出るほどクリアなものだしね。
ところで、僕はドン・キホーテの終曲あたりを聴きながら、ふと最近の仲代達矢のことを思い出した。
黒澤明の一連の名作を持ち出さずとも、仲代さんが日本を代表する屈指の名優であることは今さら口にすることでもあるまい。
あの迫真の演技、鬼気迫る表情。
でも、僕はこの人が舞台ではなく、映画やテレビドラマで見せる大柄で大仰で、心がこもり過ぎた演技に、始終息苦しさを感じてきたことも残念ながら事実なのだ。
加えて、仲代さんにそっくりな雰囲気、というより、そっくりな眼(まなこ)の持ち主がやたらと寄り集まった無名塾の同質性、没我性に対しても、なんとも言えない息苦しさを感じてきた。
ところが、最近NHKがらみで素の(素に近い)仲代さんの風貌容姿を観、言葉を聴く機会が増えて、ちょっとずつその印象が変わってきたのである。
単にまじめな俺まじめな俺まじめな俺だけではなく、ちょっと以上に滑稽な俺、が滲み出ているような。
何か心のおもしがとれてきたような。
むろん、そこは仲代達矢のことだから、死ぬまで役者の旗自体を降ろすことはないだろうけれど、よい意味で老いを加えた仲代さんの硬軟バランスとれた演技を、僕らはこれから観ることができるのではないか。
実に愉しみだ。
そうそう、役者って、我であるべき部分とそうでない部分とのバランスが…。
って、これはいったいなんの話だ。
しまった、ドン・ファンとドン・キホーテのCDレビューだったんだ。
ついうっかりして、またも我を忘れていた!
2009年03月07日
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