☆オペレッタ・アルバム
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ロナルド・シュナイダー(ピアノ)
2002年、デジタル録音
<DECCA>473 473-2
あとから来たのに追い越され、泣くのがいやならさあ歩け。
という、高度経済成長期根性丸出しの言葉は、おなじみ『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」の一節だ。
と、言って、なにも藍川由美が歌った木下忠司作品集のレビューをここで始めようというわけじゃない。
これはいわゆる話のマクラのマクラ、序の口序の入りである。
で、この一節をよくよく考えてみれば、追われる側もそうだけど、あとから歩いている側も先行く者を追い越そうと必死ということで、これまた相当大変ということになる。
そういえば、大塚愛がデビューしたときは、なんだこのaikoのばったもんはと鼻白み、aikoが異性との恋や愛を歌いながら同性に目を向けているのに比べて、大塚愛(を売ろうとする側)が同性に目を向けたふりをしながらちらちらと異性に視線をやっているように見えて仕方のない大人の男のやり口をやっていることにうんざりしたものだけれど、その後彼女がなんとか自分の位置を保とうと歌番組であくせくばたつく姿を観るに及んで、ああ、この子も頑張っているんだなあと後行者の苦しみを覚えるようになった。
(意識無意識は別にして、人としての計算がよく働いているのは、明らかにaikoのほうだろう、たぶん、きっと)
その点、先行者と後行者の関係は厳然とあったとしても、また詰める革袋は似通ったものだったとしても、本来の個性の違いが明瞭でありさえすれば、逃げ切るだの、追い越すだのとはなから争う必要はない。
ルチア・ポップとバーバラ・ボニーとの関係は、そのよい見本ではないか。
確かに、透明感のある声質の持ったソプラノ歌手という意味で、両者は共通していて、実際今回取り上げるオペレッタ・アルバムをはじめ、ボニー(を売ろうとする側)がルチア・ポップを意識したとおぼしきCDを少なからず録音していることは事実である。
けれど、かなたルチア・ポップは磨かれてなめされたような声が特徴だし、こなたバーバラ・ボニーはどちらかといえばナチュラルで柔らかな歌い口が魅力の歌手であって、どちらが上でどちらが下だなどと取り立てて軍配を挙げる必要もないだろう。
それこそ、なすにまかせよ、ではなく好みにまかせよだ。
さて、このバーバラ・ボニーのオペレッタ・アルバムだけど。
正直言って、21世紀に入ってからのボニーの声の衰えは残念ながらいかんともし難い。
むろん、凡百の歌い手たちに比較すれば、まだまだ澄んで伸びる歌声を披歴しているのだが、いかんせん若い頃の彼女の歌声を承知している分(僕は、CDばかりでなく、ジョン・エリオット・ガーディナーとハンブルク北ドイツ放送交響楽団のマーラーの交響曲第4番で、生の彼女の歌声に接しているのだ)、高音部その他、一層辛く感じられてしまうのである。
それでも、『メリー・ウィドウ』のヴィリアの歌(トラック14)や、リート調の同じくレハールの「野ばら」(トラック15)、ツェラーの「桜の花の咲いた頃」(トラック6)などでは、彼女の声や歌唱の魅力を存分に味わえるし、おなじみアンネン・ポルカの旋律にのせたヨハン・シュトラウスの「ほろ酔い気分」(トラック8)では、とうのたち具合の面白さを愉しむことができるので、購入してよかったとは思っているが。
それでも、このアルバムが少なくとも3、4年は早く録音されていればという想いはどうしても消えない。
それにしても。
歩き続けようが、立ち止まろうが、生ある者は必ず老い、そして死んでいくのだ。
ピアノ伴奏によるこのアルバムを聴いていると、一見華美で賑やかに見えるオペレッタの世界の裏には、そうした人生への哀感や諦念が詰まっているような気がして、僕には仕方がない。
2009年02月28日
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