☆ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」、「エグモント」序曲
コリン・デイヴィス指揮ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン
1991年、デジタル録音
<PHILIPS>434 120-2
グリーグ&セヴェルーの「ペール・ギュント」組曲集へのレビューで、メジャーとマイナーの話を落語のまくらよろしく語ったが、今回はテーゼとアンチテーゼの話から。
って、メジャーとマイナーも、テーゼもアンチテーゼもおんなじじゃないの、といぶかしがるあなた、残念ながらあれとこれでは、ちょと話が違う。
これは理念、それも、あくまでも僕個人の考えでいえば、メジャーとマイナーは個々に独立して存在しているものであって、お互いが即対立するというものじゃあない。
たとえて言えば、「俺は俺、お前はお前」という感じ。
ところがそれと異なり、テーゼとアンチテーゼは字義通り、「俺はいい!」「いいえ、あたしはいやだ!」という明確な対立状態にある関係、てか、対立抜きには存在しえない言葉であり構図であり関係だと思う。
で、さらに理念系、それも独断専行のそれを突き進めば、世の中のことどもすべからく、ではないけれど、これまで当為とされてきたテーゼへのアンチテーゼが示され、それが新たな変化を促し、さらには…。
ああ、ややこしい。
哲学に関する素養もへったくれもない人間が、かつて読みかじり聴きかじったなんだかんだのアマルガムを悪用して何かかにかこねくり出そうとするほうが、土台無理な話。
餅は餅屋、生兵法は大怪我のもとってやつだね。
まあ、テーゼやアンチテーゼがどうのこうのなんて思い起こしたのも、コリン・デイヴィスがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して録音したベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が、実に堂に入った、王道中の王道を歩む演奏だったからなのだ。
そう、コリン・デイヴィスの指揮したエロイカ・シンフォニーは、たぶんLP時代からこの作品に慣れ親しんできた人間には、「ああ、これだよこれ、英雄交響曲はこうでなくっちゃ」と強く思わせるような演奏に仕上がっているのではないか。
テンポ的にも音の質感としても重心が低くとられているし、アクセントの付け方や楽器の鳴らし方も、それこそ20世紀半ば以降の演奏慣習に則ってくるいがない。
しかも、音楽の持つ流れや劇性には充分配慮しつつも、カラヤンのような押しつけがましさやチェリビダッケのような極端さとは無縁である。
加えて、ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンが、機能性と音色の自然さのバランスがよくとれたまとまりのよいアンサンブルでコリン・デイヴィスの楽曲解釈を見事に表現しているとも思う。
(そういえば、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの実演には、大阪とケルンで二度接しているが、その時聴いたベートーヴェンの田園交響曲やブラームスの交響曲も、両者の相性のよさと共同作業の充実ぶりを強く感じさせるものだったと記憶している)
だから、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの演奏したこのCDを、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の名演奏名盤として推すことに一切ためらいはない。
けれど、一方でこうしたベートーヴェン演奏がある種の桎梏となっていたことも想像に難くはない。
つまり、伝統の重みというか、慣習のおりというか。
それに、全ての指揮者がコリン・デイヴィスほどの、そして全てのオーケストラがザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンほどの音楽性を持っている訳でもない。
ピリオド楽器によるベートーヴェン演奏やピリオド奏法を援用したベートーヴェン演奏が登場し、なおかつ現代の主流となってきた背景には、そうした桎梏や惰性への対立・反抗の意識や精神があったことはいまさら繰り返すまでもあるまい。
そして僕自身は、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンのエロイカ・シンフォニーを素晴らしい演奏と認めつつも、ニコラウス・アーノンクールやフランス・ブリュッヘン、ロジャー・ノリントンらによるベートーヴェン演奏にも強く心をひかれるのである。
むろん、彼らの演奏もまた、一つのテーゼとして対立・反抗の対象となるだろうことは、明らかなことだろうけれど。
最後になるが、カップリングの『エグモント』序曲も、コリン・デイヴィスとザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンの劇場感覚が発揮された聴き応えのある演奏に仕上がっていると思う。
中古で、税込み1200円程度までなら、安心してお薦めできる一枚だ。
(なお、エロイカ・シンフォニーはナポレオンがらみの作品だから、タイトルは「皇道を歩む」にでもしようかと思ったが、それじゃあ日本語として変だし、だいたい皇道なんていったらああた、荒木貞夫や真崎甚三郎じゃないんだから…)
2009年01月22日
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