☆フランク:交響曲、プシュケ、鬼神
指揮:ウラディーミル・アシュケナージ
独奏:ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ。鬼神のみ)
管弦楽:ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)
録音:1988、89年
<DECCA>425 432-2
人と人との間に流れというものがあるように、人と音楽、人と楽曲の間にも流れというものがあるのではないか。
まあ、それは大仰な物言いだとしても、好き嫌いとは関係なしに、付く付かないというか、寄る寄らないというか、巡り合わせのいい悪いで、慣れ親しんだりそうでなかったりする音楽、楽曲が僕にはあるような気がする。
さしずめ、フランクの交響曲など、その後者の最たる例として挙げることができるだろう。
と、言っても、先述の如く、好き嫌いからだけいえば、僕はこの交響曲が全く嫌いではない。
確かに、許光俊や鈴木淳史が『クラシックCD名盤バトル』<洋泉社新書y>で指摘しているような、循環形式のしんねりむっつりと押しつけがましい趣きには若干重たるさを感じるものの、終楽章の「自問自答に無理から解決策を見い出し、狂喜乱舞」のあり様は、内田百間の「蘭陵王入陣曲」の狂いっぷりを愛好する者としては、実に愉しいかぎりだもの。
(だから、これまで接した二度の実演、山田一雄と京都市交響楽団、ハインツ・ヴァルベルクとケルンWDR交響楽団では、断然前者をとる。ヤマカズさんの、笛吹く上に自分も踊るからみんな踊ってくれ式のあらぶりようには、心が強く動いたほどだ。一方、ヴァルベルクのほうは何が面白いんだか。当然オケの力量はWDRに軍配を上げざるをえまいが。まるでワイマル共和国期のライヒスバンク総裁みたいなヴァルベルクのがちがちした音楽づくりはちっとも面白くなかった)
LP時代など、ヘルベルト・フォン・カラヤンがパリ管弦楽団を指揮した録音と、トマス・ビーチャムがフランス国立放送管弦楽団を指揮した録音を交互にかけて聴き比べに興じたことも一度や二度ではなかったほどだ。
だが、それがどうしたことか、CD時代になって約25年、この間一度たりとてフランクの交響曲のCDを買ってこなかったというのは魔がさしたというかなんというか。
それこそ巡り合わせ、僕とフランクの交響曲の間に、ちっとも流れがなかったということになる。
(ひとつには、これはって思える新しい録音がなかったからかもしれない。FMで聴いたジュリーニ、シャイー、デュトワの各録音も僕には今一つだったし。かといって、今さらカラヤン盤を買い直す気にもならないし…)
今回取り上げるウラディーミル・アシュケナージさん指揮ベルリン放送交響楽団の演奏したCDも、クレモナで中古が半額税込み390円になっていなかったら、たぶん買ってはいなかったんじゃないだろうか。
(付け加えるならば、昨年末に読んだCD関連のムックで、この録音のことが面白おかしく誉められていたことにも、影響されたのかもしれない)
まあ、演奏はアシュケナージさんらしいというか。
音楽の流れに沿って力強いところは力強く、美しいところは美しくと、感覚面での反応はそれなりに聴くべきものがあるように思うのだけど、構造の把握という面でどうにも物足りない。
それと、音の終わりが崩れてしまうというか、どこかしまらない感じがする。
正直、ムックの評価は高過ぎ…、てか、ひいきのひき倒し?
その点、音楽のつくりは同じく確固としているにせよ、まだ交響曲という形式にとらわれていない分、プシュケ(合唱つきの5、6章は割愛)、鬼神のほうがあらは見え(聴かれ)ないか。
鬼神では、ウラディーミル・アシュケナージさんのピアノ独奏を堪能することもできるしね。
やっぱり、アシュケナージさんはピアニストだ!
デッカのこの頃の録音のつねで、どうにもがしがしぎしがしとした機械臭い音質が時に耳になじまないということも加味した上で、税込み500円以内ならば興味がおありの方はご一聴のほど。
それにしても、僕とフランクの交響曲のCDとの関係には、まだまだよい流れというものはなさそうだ。
2009年01月19日
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