2008年10月22日

わが教え子、ヒトラー

 京都シネマまで、『わが教え子、ヒトラー』<2007年、ドイツ作品/ダニー・レヴィ監督・脚本>を観に行って来た。
(原題は、Mein Fuhrerだから、『わが闘争』ならぬ『わが総統』という語呂合わせもできないことはないが、それはまあいい。それと、この邦題は三島由紀夫の戯曲から来ているのかもしれない)
 『わが教え子、ヒトラー』は、あのヒトラーに演説指導を行う特別の教師がいたという実話を下敷きとした自らの脚本をダニー・レヴィが映画化した作品で、第二次世界大戦も末期となった1944年末から1945年1月1日までの5日間に舞台を限定したこと、そして何より、演説指導の教師を本来のドイツ人から、強制収容所に収容されていたユダヤ人俳優へと移した点がまずもって光る。
 で、ヒトラーとユダヤ人教師(彼はプロフェッサー=教授とも呼ばれるほどの名優である)との「人間的」な交流や、教師の心の葛藤、家族への愛情、独裁者の孤独、ユダヤ人である監督によってこの作品が造られたこと等々、語りたいことはいろいろとあるのだが、そういうことは映画を観てもらいさえすればすぐにわかることだろうから、ここではあえて詳しく触れないことにする。
 ただ、この物語 − そこには当然、連合軍の爆撃によってほとんど廃虚と化したベルリン市街(セットやCGが巧く利用されている)を隠蔽しようとするゲッペルスたちのあさましい姿も含まれる − が、ナチス・ドイツのいんちきいかさままやかしぶりやヒトラーの虚像を鋭く指摘した作品であることは、やはり記しておきたい。
 また、チャップリンの『独裁者』からの影響が濃厚にうかがえる作品だけあって、本来シリアスな内容であり展開でありながら、ふんだんに笑いの種(それも相当きつめの)が仕掛けられており、なおかつそれが作品の本質ときっちり重なり合っていた点も強く印象に残った。
(てか、この作品ののりは、マルクス兄弟のほうにより近いものがあるのではないか。片手を吊ったヒムラーなどそのよい例だ)
 演技陣では、残念ながらこの作品が遺作となってしまったユダヤ人教師役のウルリッヒ・ミューエをまずもって挙げるべきだろう。
 「迫真の演技」という言葉だけでは全てを伝えることができないような、一見淡々としていながら、その実語るべきことを語り尽くした見事な演技だった。
 一方、ヘルゲ・シュナイダー(今は亡きレオナルド熊をいかつくしたような感じ)も、ヒトラーという独裁者の多様な側面をよく表していたのではないか。
 大粒の涙を求める人には、あまりにも乾いたタッチに過ぎるかもしれないし、最後の最後の趣向は僕自身の好みにはそれほど合わないが、全篇観飽きることのない優れた作品だとも僕は思う。
 経済的な事情もあってどうしようか迷ったが、やっぱり観ておいてよかった一本だ。
 なお、ニキ・ライザーの音楽(ケルンWDR交響楽団による演奏)が「よくできて」いたことを最後に付け加えておく。

 それにしても、日本はどうなんだ! とどうしても考えてしまうのだ、この作品を観ても。


 *一部、書き換えを行いました。
posted by figarok492na at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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