☆スメタナ:管弦楽小品集
ロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団
1994年、デジタル録音
<MARCO POLO>8.223705
今僕の手元に二枚のCDがある。
一枚は、先日ブックオフで購入したロベルト・スタンコフスキ指揮ブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏によるスメタナの管弦楽小品集で、もう一枚は、クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏による同じくスメタナの、こちらは管弦楽名曲集<DECCA 444 867-2>だ。
で、この二枚のCDを聴き比べてまず感じたことは、やはり名曲には名曲と呼ばれるだけの理由がある、ということだった。
もちろん、だからと言って、スタンコフスキのCDに収録された作品に全く音楽的な魅力がないと言いたい訳では毛頭ない。
幻想的で抒情的な美しさ(特に、トラック8の『漁夫』にその美質がよく表れている)や、牧歌的で懐古的な親しみやすさに満ちた旋律をそこここに聴くことができるし、勇壮で躍動感にあふれたのりのよい音型もしっかりたっぷりと含まれている。
まさしく、この管弦楽小品集は、スメタナの音楽の持つ魅力の源泉を識るための恰好な教材とさえ言うことができるだろう。
しかしながら、ドホナーニのCDに収められた同じ作曲家によるおなじみ『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲などと並べてしまうと、小品集に収録にされた作品の音楽的な弱さに気がつかざるをえないこともまた事実なのである。
例えば、スタンコフスキ盤のトラック7の荘厳なる序曲ハ長調とドホナーニ盤のトラック2の『リブシェ』序曲と比較してみよう。
金管楽器のファンファーレが全体を支配するという点で、両者の音楽的構造には通じるものがある。
けれど、結果として生み出される音楽には、どうしても「推敲前推敲後」以上の開きを、僕は感じてしまった。
つまり、『リブシェ』の序曲があるべきものがあるべき場所に納まっているという出来上がりなのに対し、荘厳なる序曲のほうは力で押して押して押してみたけれど押してみただけといった造りの弱さと粗さが耳につくのである。
(あるべきものがあるべき場所に納まっている、という感じは、上述した『モルダウ』や『売られた花嫁』の序曲にも共通している。対して、小品集に収められた作品にはえてして、くどさというか、まとまりの悪さを感じたものが少なくない)
ただ、ここまで両者の差を大きく感じた原因の一端に、ドホナーニとスタンコフスキの音楽づくり、と言うより、クリーヴランド管弦楽団とブラティスラヴァ放送交響楽団というオーケストラの力量の差が存在することも挙げておかなければなるまい。
一方のクリーヴランド管弦楽団は、アメリカを代表する名門中の名門オーケストラの一つであり、多少の変化はありつつも、ジョージ・セルの頃から機能性の高さとアンサンブルのよさで知られた集団である。
他方、ブラティスラヴァ放送交響楽団といえば、個人的にはその素朴な音色は好みであるのだけれど、残念ながら機能面に関しては、クリーヴランド管に太刀打ちできるものではない。
(実際、小品集においても、小さいけれど、しかし明らかな傷がブラティスラヴァ放送交響楽団の演奏には聴き受けられる)
少なくとも、こうしたクリーヴランド管弦楽団の引き締まった演奏とブラティスラヴァ放送交響楽団の緩めの演奏の印象の差が、作品に対する判断の差につながっていないと断言することは僕にはどうしてもできないのだ。
と、こういう風に綴ってしまうと、結局お前はメジャー・レーベルのメジャーな演奏者によるメジャーな音楽万歳で、マイナー・レーベルのマイナーな演奏者によるマイナーな音楽はだめだめだと思ってるんじゃないかと決め込む人もいそうだが、現実というものはそんなに単純なものではない。
確かに僕は、小品集に収められた諸作品よりも、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲のほうがよくできた音楽であり作品であると、そちらのほうに軍配を上げる。
それだけじゃなくて、『モルダウ』や『売られた花嫁』序曲が僕は大好きだ。
だけど、僕は小品集の音楽に耳を塞いでしまうつもりにもなれない。
それどころか、繰り返し聴けば聴くほど、この小品集というCDに心ひかれてさえいるのだ。
(一つには、デッカ・レーベルのどこか作り物めいた録音より、小品集の自然な音響のほうがしっくりくるということも関係しているのかもしれないが)
正直、フルプライス(2000円程度)ではお薦めしにくいが、中古やセール品で800円以内ならお薦めできる一枚だ。
(てか、早くナクソス・レーベルに移行されればいいのに!)
2008年10月09日
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