2008年02月27日

『レディ・チャタレー』

 京都シネマまで、パスカル・フェラン監督の『レディ・チャタレー』(2006年、フランス)を観に行って来た。
 予告篇で、これは観ておこうと思った作品だが、あいにく一日10時過ぎからの一回こっきりの上映のため、ずっと観ることができずにいた。

 で、今さら原作『チャタレー夫人の恋人』の展開についてくどくどと記す必要もあるまい。
 D・H・ロレンスが遺した最後の小説で、その性的な表現からイギリスはもちろんのこと、この日本でも裁判沙汰になったことで知られており、これまで数回映画化されてもいる。
 ただ、そうした騒ぎ、並びに映画化作品がどうにもセックスの部分こだわった、もっとありていに言えば、「ポルノ」的な興味関心に著しく傾斜しがちであったのに対し、今回のフェラン監督の『レディ・チャタレー』は、より作品の本質に迫った作品に仕上がっているのではないかと、僕は思った。
(なお、チラシによると、フェラン監督は『チャタレー夫人の恋人』を映画化するにあたって、一般に広く知られた第3稿ではなく、チャタレー夫人コンスタンスと森番のパーキンの二人の関係が強く描かれた第2稿をもとにしたという)
 特に、ことさら美化されない、言い換えれば、男性的な「ドラマ化」がされていない、マリナ・ハンズ演じるコンスタンスと、ジャン=ルイ・クロック演じるパーキンの描かれ方(それは、二人のセックスを含めてだけれど)には、好感が持てた、
 また、自然描写の豊かさも印象に残り、性=生=自然、といったとらえ方には、今村昌平監督の『楢山節考』を思い出したほどである。

 一方で、生理的な意味合いからも、2時間15分は長過ぎた。
 少なくとも、ラストの「会話」がこの作品の肝の一つなのであるとするなら、なおのこと、終盤の「映画的趣向」などもっとカットしてもよかったのではないだろうか。
 自然描写が豊富でありながら、映画の造りが「自然」でないことは、前半部分からわかっていたことだけれど。
(そこがまた、イマヘイさん的でもある)

 役者陣では、「等身大」の恋人同士を演じた先述の二人の他、壮年の頃の仲谷昇みたいなチャタレー卿のイポリット・ジラルド(てか、仲谷昇があまりにもバタ臭かったのだ!)も印象に残るが、実に「フランス」的な布陣であり、「イギリス」的な雰囲気にこだわる人には不満が残るかも。
(って、しゃあないやね、そこのところは。だって、フランスの映画なんだもん)

 それにしても、『チャタレー夫人の恋人』は、「当たり前」のことが「当たり前」に表現されている小説なのだ。
 できれば、映画の原作となった第2稿を新しい翻訳で読んでみたい。
posted by figarok492na at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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