2007年03月15日

歴史学者の歴史性

 なんて書くと大仰だし、だいたい歴史学を専門に研究している人間にとっちゃああったり前の話なんだけど、津田秀夫の『日本の歴史・22 天保改革』<小学館>を読んでいて、そんなことを思い出してしまった。

 この『天保改革』の巻では、徳川家斉治世のいわゆる大御所時代の奢侈濫費のつけがどどっとたまってえらいことになった、さあ改革せねば改革せねばと幕府の側があっぷあっぷしている時代が取り上げられているのだが、よくよく考えてみたら、この本が刊行された1975年って、田中角栄が金権問題で失脚し、さらにロッキード事件で世の中てんやわんやになってた頃なんだよね。
 まさしく、時代状況が重なっているし、実際、筆者も強い問題意識を持って筆を進めているように思う。
 結局、歴史学を司る人間も、自分自身が生きる「現在」に縛られざるをえないってことで、研究書を読む際は、個々の歴史学者がどのような時代を生きたかにも留意しておかなきゃいけないんじゃないだろうか。
(もちろん、現在=2007年の歴史学と歴史学者の関係についてもおんなじことだけど)

 そういえば、同時期に放映されていた『暗闇仕留人』なんかも、ちょうど天保改革の前後に時代が設定されていたんじゃなかったっけ。
 これも、時代認識の強い表れだったんだろうな。

 それにしても、大御所時代や天保の改革の頃と現在の状況がどうにもそっくりのように感じられるのは、僕の勝手な思い込みなのだろうか?
posted by figarok492na at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック