2007年02月22日

他人のそら似

 と、言ってもミシェル・ブランが主演したフランス映画の話ではない。
(そう言えば、この映画はハリウッドでリメイクされる云々かんぬんとか喧伝されていたが、結局どうなったんだろう。諧謔精神と反骨精神がこの作品の根底にはあったはずで、それがなくなりゃ、気の抜けたあちゃらかに過ぎないだろうに)
 コリン・デイヴィスの指揮するモーツァルトの序曲集のCDを聴いていて、ふとこの言葉が頭に浮かんできたのである。

 コアなクラシック音楽好きな方なら、もしやあれかと、お気づきかもしれないが、この序曲集には、モーツァルトの初期の歌芝居『バスティアンとバスティエンヌ』の序曲も収められている。
 実は、この曲の音型が、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第1楽章のおなじみの主題に非常にそっくりで、ベートーヴェンがこの『バスティアンとバスティエンヌ』に接する機会があったかどうかがしかとはわからなかったこともあって、「他人のそら似」という言葉を使ってみたくなったのだ。
 まあ、音楽の世界においても「常套句」的な旋律・音型が慣用されていた時代ということもあり、何も敵の首をとったみたく大はしゃぎすることでもないのではあるけれど。
(だいいち、二つの作品で描かれていることの「違い」はあまりにも明瞭だし)

 それに、よくよく考えてみなくても、今の世の中にだって「他人のそら似」はごまんとある。
 てか、モーツァルトやベートーヴェンの時代から200年以上、音楽的にありとあらゆることが試されてきたのだ。
 どれだけ真似をすまいと頑張ったところで、どこかで何かに似てくるのは仕方のないことだろう。
 要は、自分がそんな時代に生きているということをきちんと踏まえておくことだと、僕は思う。
 商業主義もろだしの「ぱくり」常習者は度し難いが、自分に特殊なオリジナリティーが備わっていると思い込んで「他人のそら似」を量産し続けている自称天才にも困ってしまう。
 他人から見れば自分も他人、「自分は自分であって、自分ではない」という意識が必要なのではないだろうか。

 ところで、しょっぱなの話に戻ると、現代におけるリメイクって作業はどう評価すべきなんだろう。
 再創造なんて言葉を使えば、なんだかえらくかっこうがいいんだが…。
posted by figarok492na at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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