2007年01月31日

小説と映画の違い  − 『巨人と玩具』を通して −

 小説と、それを原作として映画化された作品は、全くの別物だ。

 などと書くと、何を今さらと馬鹿にされそうだが、このところ『細雪』や『白痴』と、過去に映画化された小説を読み続けてきて、改めてその感を強めていた。
 さしずめ、今日読み終えた開高健の『巨人と玩具』(『パニック・裸の王様』<新潮文庫>所収)などは、まさしく小説と映画の違いをつまびらかに教えてくれる、優れたテキストだと僕は思う。

 すでに、増村保造監督、白坂依志夫脚本による『巨人と玩具』(1958年、大映東京作品)については、別のところで触れたから、ここではくどくどと繰り返さない。
 原作が、明らかに開高健その人の反映(何しろ、彼はサントリーで広告宣伝業務に携わっていたはずだから)であり、高度経済成長期を目前に控えた日本の資本主義システム・大衆社会に対してはっきりと距離を保った姿勢が貫かれているのに反し、映画のほうは、そうした状況に棹をさし、没入翻弄される人間の姿が、過剰に、シニカルに、なおかつエネルギッシュに描かれている。
 また、原作の「私」と「合田」が、映画化に際して、如何に、川口浩と高松英郎、信欣三、山茶花究らに分離されたかや、原作のエピソードがどう取り入れられ、原作にはないエピソード(主人公の恋愛等)がどう挿入されたかをつぶさに観察すると、なるほど、小説を映画にするということはこういうことなんだ、と手にとるようにわかる。
 いずれにしても、小説と映画の表現の主眼の違い、何に重きを置くかの違いを再認識することができて、本当に興味深かった。
(詳しくは、原作を読み、映画を観てからのお楽しみだけれど、何と言っても、ラストが違う。両者の世界観の違いは、ここにこそ表れていると思う)

 ところで、小説の映画化は、現在でも繰り返し行われている。
 「映像」の強い影響によって、小説の大きな変化(物語の展開や表現方法、文体はもちろん、作家の表現意欲そのものにいたる)が進んでいる現在では、小説の映画化はより「容易」になったと考えられても不思議ではないのだが、それほど、というか、ほとんど成功しているとも思えないのが、実際のところである。
(ただし、これは日本に限ってのことだ)
 その理由としては、シナリオ(脚本化)の弱さ、演出力の弱さを一番に挙げるべきなのだろうが、一方で、先述した小説自体の大きな変化にもその要因があるのではないかと、僕には感じられてならない。
 この点に関しては、いずれまた別の機会に、具体的に考察してみたい。
posted by figarok492na at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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