2006年12月31日

犬神家の一族

 昨日、新京極シネラリーベのレイトショーで、市川崑監督の2006年版『犬神家の一族』を観る。

 1976年版の作品を偏愛しているからこそ、昔と比べちゃいかんいかんと自らを戒めながら観始めたのだけれど、タイトルの部分で、石坂金田一の映像が何個か挟まれたところで、こりゃあ辛いなあと思ってしまった。

 もちろん、「批評家」を気取るなら、あれこれと好意的な評価をできないこともない。
 例えば、作品としてのテンポ感の変化は否めないとしても、市川崑が一連の作品で追求してきたことどもは、単に表層的、じゃない映像的、ばかりでなく、物語の展開や構成からも明瞭に伝わるし、増村保造監督らに強く影響を与えた「過剰さ」やユーモア感覚は、今回の『犬神家の一族』においても、それなりに発揮されていた。
 加えて、石坂浩二の演技の巧さは抜群のもので、年相応の名探偵像を造り上げていたと思う。
 また、加藤武や大滝秀治、三條美紀、草笛光子らの演技にも観るべきものがあったのではないだろうか?
(「老いたなあ」という感慨はこみで)

 ただ、ぶっちゃけて言えば、76年版を「なぞっている」感がどうにも強く、さらには演技陣の演技の過剰さが嘘臭く感じられて*、なんとも心が動かされなかったことも事実である。
 *特に、富司純子、中村敦夫、仲代達矢、松坂慶子、萬田久子らに、それを感じた。
 少なくとも、前作の高峰三枝子(それほど巧いとは思えなかったのに)、小澤栄太郎、三國連太郎、三條美紀、草笛光子らとの「差」は明らかだろう。
 そして、その「差」は、映画の黄金時代に間に合ったか、その後の「アンチテーゼ」の時代を生きなければならなかったかの「差」だと僕は考える。
(松坂慶子は、かつての一連の作品を彷佛とさせる演技を見せていたシーンが一箇所だけあったが)

 駄作愚作とも言わないが、成功作とは、僕には断じることができない。
 セルフパロディになりきれなかったセルフパロディもどき、と評すれば酷に過ぎるだろうか?
posted by figarok492na at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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