2006年11月02日

偽れる盛装

 京都文化博物館まで、吉村公三郎監督の『偽れる盛装』(1951年、大映京都)を観に行って来た。

 新藤兼人脚本による『偽れる盛装』は、もともと『肉体の盛装』のタイトルで松竹が撮影を計画していたのだが、経済的な事情により製作が中止され、吉村・新藤コンビは松竹を離れ近代映画協会を設立、さらには東宝、東横(東映の前身)での企画もぽしゃってしまい、ようやく『偽れる盛装』の名で撮影が実現したといういわく因縁つきの作品である。
(加えて、もともと主人公役には山田五十鈴が予定されていたのだが、途中で降板し、本来妹役だった京マチ子がピンチヒッターとして主人公を演じることになったというエピソードまである。この間の事情については、出演者の一人でもあり、吉村・新藤両人の盟友でもある殿山泰司の『三文役者あなあきい伝 part2』<ちくま文庫>の「愛妻物語」の章が詳しい)

 自らの置かれた境遇から、男性との関係を金銭で勘定せざるをえなくなった祇園・宮川町の芸妓君蝶を中心に、彼女を取り巻く家族(昔気質の母親と、結婚に関して悩む妹)や男たちとのエピソードが、ウェットな感覚を保ちつつ、比較的テンポよく描かれていて、見飽きることがない。
(特に、ラスト近くのスリリングな展開など)

 祇園という狭い世界に生きる女性を軸にすえたという点では、溝口健二の一連の作品と「通底」するものがあり、主人公が現状に倦み疲れ、嫌悪感さえも感じているという点では、成瀬巳喜男の『稲妻』と「通底」するものもあるように感じられた。
 そして、男たちのだらしなさ、弱さと、それに対峙する女性という構図は、明らかに新藤兼人作品に「通底」するものであるだろう。
(また、福弥という芸妓が肺病で亡くなるというエピソードには、同じ年に製作された新藤兼人監督による『愛妻物語』を思い出さざるをえなかった)

 役者陣では、何と言っても京マチ子の主人公ぶりが強く印象に残るが、母親役の滝花久子や「敵」役の村田知英子、菅井一郎、進藤英太郎、小林桂樹らも柄に合った演技を行っているのではないか。
(妹役の藤田泰子に関しては、あえて語るまい)

 いくぶん、京都に対する「オリエンタリズム」が評価を高めているような気がしないでもないが、一見の価値は充分にある作品だと、僕は思う。
posted by figarok492na at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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