2006年09月16日

邪劇の先駆性

 後年の「赤いシリーズ」や『スチュワーデス物語』、『少女に何が起こったか』、そして『この子の七つのお祝に』を知っているだけに、増村保造監督の『巨人と玩具』(1958年、大映東京)は、観返せば観返すほど「完全無欠」の邪劇のように、僕には思われてならない。
(実際、『巨人と玩具』の中には、のろまな亀の堀ちえみや、復讐の鬼たる片平なぎさや岩下志麻の「ひな形」が存在している)

 もちろん、『巨人と玩具』を邪劇の中の邪劇たらしめているのは、増村監督の超モダアンな映像作劇とともに、開高健の原作を一層きわもの化した白坂依志夫の脚本であることも指摘しておかなければならないだろう。
(小林信彦は、「俗物は俗物である」*において、「開高健の原作のあまりにも観念的な部分が、白坂脚本で輪をかけられている(後略)」と批判している)

 特に、高松英郎演じる合田課長の、
>現代の人間は赤ん坊以下です。
 犬以下です。
 なぜか?
 (中略)
 頭の中が空っぽです。
 そこです、我々が狙うのは。
 この空っぽの頭の中に我々は繰り返し繰り返し叩き込む…<
という台詞には、信欣三演じる矢代部長ならずとも、「大衆への軽蔑」や「傲慢さ」を感じ、そのあまりの表層的な言葉に唖然とせざるをえない。
 こりゃ、まさしく邪劇だ!

 だが、そうした表層的な言葉を、約半世紀前の「俗物」が書き散らかした妄言妄語と言い切ることも、実は僕には出来ない。
 なぜなら、空っぽの頭の中へか否かは置くとしても、「同じ言葉」を繰り返し繰り返し叩き込まれて、よくよく考えてみれば具の骨頂でしかない人物や政策を多くの人間が諸手を挙げて支持するような一幕が、最近もあったからである。

 増村監督は、『巨人と玩具』の興行的失敗に関して「早すぎた」と悔やんだそうだが、50年が過ぎても邪劇の邪劇たるゆえんが解消されていないこの国の現状には、あまりにも「遅すぎる」と嘆く他あるまい。

 いずれにしても、邪劇だからこそ見えてくるものもあるということだ。
 ただし、それは邪劇ばかり見ていても見えてこないものだろうけれど。

 *『映画を夢みて』<ちくま文庫>所収
posted by figarok492na at 13:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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